「促進法」案をどう見るか

2000.04.
 
 
「促進法」は、ほんとうに、解決を促進するか。

「促進法」は、政府と「アジア女性基金」を批判することをもって提案趣旨としている。国連で、各国政府、国会そして被害者多数が批判し拒否している、という。

 だが、被害者たちの過半数を大きく上回る人たちは、「アジア女性基金事業」を自ら申請し受け取っている。
 提案趣旨の一つは、まず、根拠として成り立っていない。動機自体が、あやしくなる。「基金」否定は、「慰安婦」被害者の意思と選択を否定することになる。

 つぎに、「国が法的責任を認め、国が補償を実施する法案」ならば、アジア女性基金設立時の枠組み(制約)を超えることになり、たしかに補償問題は前進する。
 ところが今度の法案のどこにも国際法違反・不法であるとの「法的責任」も「国家補償」も提起されていない。現政府、国会構成から提案自体が無理だったからである。民主党のみの提案となった理由もそこにある。だからこそ、韓国や台湾で、運動団体に「これをだめというなら、提案自体をやめるがどうか」と迫った。
 それ自身、前進しないものを認めさせる強引さが露骨。さらに、運動団体なだめではあっても、「慰安婦」被害者の意思を確認したものではない。

 課題はハッキリしている。

1. 政治情勢の枠組み(制約の中)でアジア女性基金が公的に設立され、実行に入った。(95〜)
2. 「法的責任」などを争った裁判所は、それを認めず主張自体を根拠がないと判決した。(98〜原告敗訴─控訴)
3. 「慰安婦」被害者たちは現実的に、自らの選択としてアジア女性基金を受け取った。過半数を超えた。
4. 現実に政治的にも実行できているアジア女性基金に、政府・国会が、もっと前向きな支援体制をつくること。

 こういう明白な課題に対して「民主党法案」は、根拠も薄弱、審議入り・成立の見込みのない提案で、「幻想」だけをふりまくことになっている。アジア女性基金との連続、非連続についても、明確にしていない「提案」となっている。総選挙が近い、というタイミングも、いかにも見え透いている。
 


 
 
 アジア女性基金の償いの事業は1994年12月の自社さ政府与党がつくった骨格のとおり、95年閣議了解でアジア女性基金が発足、政府は拠出を含む最大限の協力を行うとして、実行に入った。
  償いの気持ちをとどける事業はつぎのとおり。

(1)国の道義的責任を痛感し、「慰安婦」被害者個々人に、日本国総理大臣としておわび(apology, 韓国語で謝罪)を伝える手紙
(2)国民の拠金による「償い金」一人200万円
(3)政府が道義的責任を誠実に果たすため、医療・福祉支援事業(財・サービス、韓国・台湾の場合一人300万円規模、フィリピン一人120万円)

 これら事業を主として運動団体が批判──法的責任」を認めていない、手紙は個人的なもの(国会決議によるべきとの意見も)、医療・福祉支援事業は現金ではない──「国が法的責任」をごまかすための「基金」事業だとした。

 「朝日新聞」は、医療・福祉支援事業300万円規模実施は「個人補償への道開く」と報道。「アエラ」では政府高官が、「イチジクの葉一枚」と、補償の趣旨にあたると受け取れる発言をした。また「朝日新聞」は、「被害者の心を原点に」との社説を掲げ、アジア女性基金について「国庫支出という点で、現実的にはすでに国家補償に近付いている。にもかかわらず、そうではないという政府の逃げの姿勢が、事態をさらに複雑にしてはいないか。 」と述べた。実質補償となるのだから、「国としての補償だ」とさえ政府がいったら解決する話だ、との意見もある。

 政府が「基金」に予算措置をして、「基金」が申請を受け実施することになったところで、「慰安婦」被害者たちは選択した。
(1)「基金」を申請せず、あくまで法的責任と国の補償・賠償を求めて裁判の判決を待つ(99年までの判決のほとんどが原告敗訴の結果。控訴がつづき、一つとして被害者に何かをとどけることにつながっていない)、
(2)裁判を争いつつ、別次元の現実的選択として「基金」を申請する(フィリピン、韓国、台湾で対象者の過半数を大きく超える被害者たちがすでにこれを選んだ)、
(3)「基金」の申請受付・実施が5年間であるから、その間、様子をみる
 というさまざまな対応をとった。

 「基金」はすでに5年。多くの「慰安婦」被害者が(2)を選択し、過半数を超えて受け取られている状態で、民主党は、あえて「国の責任で、謝罪と、支払いを伴う措置を促進する」という中途半端な主旨で、この法案を出したのだが──。


 
 

「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案趣旨説明」「同要綱」「同法律案」(民主党、4.11参院提案)について──要旨 
 2000.4. 原田信一 *文中、アジア女性基金、「基金」は、財団法人女性のためのアジア平和国民基金をいう
 

「慰安婦」問題のため、どこが明確に積極的な「解決」となる法律案であるのか、理解しにくい。なぜ理解しにくくなったか。はっきりいえば、民主党の一部の議員(の秘書)らが、一部の運動体の意図に応えるため「もうすぐ国会で補償などの解決ができるから、『アジア女性基金』に手を出さず、待ってほしい」と無責任な風説を流してきた(500万円とか2000万円出るとまでいい回った)。その延長線上で一部の運動体向きに、しかし環境が難しいためにハッキリしない法律案になったのだろう。
 以前、「慰安婦」問題で立法案を本岡議員らが参議院に提出し、審議にも至らずあっけなく廃案となったことがある(注記・下)。その際「日本にもこういう議員がいることをわかってもらえればいい」という趣旨の発言が新聞で伝えられたことを思い起こす。

 「慰安婦」問題への政治の対応のレベルは、簡単にいえば、こうなるだろう。

(1)解決ずみであり何も措置しない(「慰安婦」問題自体が存在しないという見解さえある)
(2)被害者の実態と国の関与した事実とを認め、政府の責任を表して謝罪し、現実的に可能な政策的措置をする
(3)国会での立法により、被害者の事実・実態を厳格に調査、認定し、当時から不法行為であったと責任を認めて、認定者には国(政府)が謝罪し個人補償を行う

 「慰安婦」問題が政治問題化した、当然政治的・社会的に議論になる、どのレベルで合意し対応するのか──。可能なことを、被害者に実現することが政治でいう「問題解決」だろう。客観的にいえば、運動やマスコミや世界の「世論」や司法の判断、また政府、国会〔議員)の判断と合意、そして被害者たちの選択が成り行きを決定する。現実は、「慰安婦」問題への関心は冷えた、反謝罪の「国民の歴史」派の存在、裁判がほとんど法的責任・補償判決どころが主張に根拠がないと判決、政府・国会でも「補償」を持ち出す状況ではない。

 状況が難しいからこそ運動体が「理論」「原則」を先鋭化させ、主観的になり、それを政党・議員に持ち込む。「べきである」論。これに議員・政党が、国会構成や政府の実態をふまえず「べき」論であまい対応をしようとする。補償問題では、合意成立の可能性は極めて低い環境がある。だからこそ「措置案」は「補償」を持ち出せないものになる。今度は、推進するはずの党や議員が運動体に対して「これでいくしかない。賛同するか、そうでなければ案も破棄する」と返す。よくあるのは「われわれが政府与党になればできる」と、選挙での支持だけを求める傾向。案じたいが「べき」論だけになることもある。提案はするが、成立可能性はない──。そこでは、被害者の姿は、まるで消えてしまっている。

 被害者〔問題〕の意思と状況、市民運動の力量、政治的・社会的環境などを冷静にみて、市民活動は、「実現すること、できること」を考え行動しなければならない。それが責任というものだ。
 民主党の「みえにくい」ところが、こんどの「法律案」に、みえてしまっているように思える。「市民」との接点というより、つきあい方自身が違うのではないか。