女性国際戦犯法廷──天皇の戦争責任を、法律家・知識人が「語ったこと」に意義があったのか?
*2000年12月、都内で「女性国際戦犯法廷」という運動集会が開かれた。VAWW-NET ジャパンなどが主催。
*2005年1月、NHK番組訴訟に連動した朝日新聞の報道で政治家の番組編集への介入疑惑が起こったが、その以前に、「法廷」主催者たちは、「法廷」と元「慰安婦」の気持ちのかい離を隠蔽してきた。2005.1.
 
▼ この「法廷」は「慰安婦支援」かのようだが、「女性・正義」をうちあげる運動体のための集会であった。「慰安婦」問題について日本国の「法的責任」「謝罪と賠償」を主張する団体、女性運動団体が主役として振る舞った。その感情と結論の行方は、東京(極東)裁判のやり直しというか、「国民の戦争参加・責任」の視点や痛みはきわめて弱い、天皇と東京裁判戦犯を再度あげつらうもので、一方的に他人に責任を押し付けるものになった。
▼ 「法廷」主催者が「主役は元「慰安婦」」というのは、はたしてほんとうだろうか。集めた元「慰安婦」たちを壇上に上げて拍手したことをいうのだとしたら(まさにタナ上げ)、いかにも「正義を自任する運動団体の運動」らしい、自己陶酔しただけの論理と物言いだ。

▼ 実際に、各国の元「慰安婦」、NGOは旅費などをかなり自費で負担して来日したといっていた。他方、「法律家」や知識人は招待だったのかどうか。会計報告はどうなっているだろうか。主催・運営側がどっちをみていたか、呼び集めた被害当事者や現地の支援者をどう扱ったか、いかにかれらが落胆と苦渋を味わわされたか。当事者の怨嗟の声と主催者側の満足の対照。根本で間違っていることは気づかれなかった。
▼「集会」は公開といっていながら、趣旨に賛同する者に制限して入場させた。そのことを知らない外国からの参加者もいた。(これに反対するものは「右翼」として断定し、危機感を外に向け、内輪の正義を演出した。防衛隊みたいなものさえつくった。)

▼ 実は、この「法廷集会」の開催の間に、インドネシアなどこれに参加した当事者などが、アジア女性基金側に連絡をし、接触した。「基金」を受け取れないだろうかと相談、申し入れするものだった。統制を離れたその行動をめぐって「法廷主催者」と当事者などでかなりの激論と混乱が起きた。主催者の意図と対立したということだが、「法廷」の総括、報告には、そのことは一切触れられていない。(反「基金」が運動体共同の核だったから、一大事の騒動になった。内部からの事実証言は別項に載せている)
▼ 責任者処罰、謝罪こそが被害当事者の主眼と運動体、主催者はいう。…ならば、「基金」事業を個人として受けたいという参加当事者や「賠償金を要求」する提訴原告は「戦犯」と同列とでもいうだろうか。韓国の団体は事実、「基金」をうけた当事者に対して「民族心を売り渡した汚い女」「自ら出ていった売春婦」と公然の吊るし上げをおこなった。そんな体質、心性、組織に、「当事者」もなければ「真実性」への真摯さも資格もない。

▼ 元「慰安婦」当事者と主催者の間のこうしたあつれき、対立の事態をきちんと見極めるなら、この「運動集会」が何であったか、だれが主役だったか、だれが相変わらず「従属」させられる対象だったのかをものの見事に表していないだろうか。この運動で、ほんとうは、いったい「だれが裁かれなければならないか?」。
▼ その後、元「慰安婦」当事者たちに、「法廷判決」は何をもたらしたのか。韓国国会で「10年以上(運動体と)騒いでなにもならなかった」とハルモニは吐露している。──以上、2004追記

▼「沈黙と不処罰の連鎖を断つ」という標語は意味あることだとした上で(それにしても、自らきびしさを引き受けてやればいいものを、「慰安婦」被害者に依拠しているのが解せない)──

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■奇怪な「法廷」総括

2000年12月に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」の一端、その実態をうかがわせる、『反天皇制運動PUNCH!』3号に載った総括記事がメーリングリスト上に提供された。(aml.--aala e.m. 2001.1.20 No.36【議論と論考】)
「法廷」の主催者として一部を担った鈴木裕子氏はそのインタビューで、氏が「法廷」にどのように臨んだか、またその総括を語っている。

氏は、「慰安婦」問題で運動は謝罪、賠償、補償要求に走ったが、その域を出なかった、「転倒」していたと、問題にする。まず先に天皇の責任、責任者処罰をいうべきであった、と。今度の「法廷」でようやく天皇の戦争責任を持ちだし、そのことの報道もなされた意義があるとして、さらに「女性の立場から天皇制を問題にし続けるということは、まだまだ不十分だ」と、「天皇制と女性」の視点を強調する総括を行っている。(記事の全面転載は遠慮した。)

ひとりの・ひとつの独特な「法廷総括」だろうが、その限定つきで「法廷」は何だったか、疑問を呈したい。
アジア太平洋戦争で日本軍として徴用された韓国の人たち(韓国・遺族会)、日本軍「慰安婦」にさせられた女性たちへの責任(帝国日本の)、それゆえの国の補償を求める裁判を進めてきた者として、異議を唱えておきたい。
こうした「総括」、運動が、はたして「慰安婦」問題の解決なのかどうか、の観点から──。
(この部分2001.8.7.一部再改稿)



■鈴木裕子氏という不可解

鈴木裕子氏(女性史)が上記のインタビューで語った内容で、つぎの点について疑問をもつ。

○賠償、補償より天皇の戦争責任が重大か?
○「天皇裕仁」の戦争責任を問題にした「歴史的飛躍」なのか?
○ピープルズ・パワーが国家もフェミニズムも超えた?
○「アジア女性基金を受け取りたい」──被害者の発言を無視、運動が「沈黙」させたのではないか?
○招待と自費参加の実態、会計の公開を(だれが主役か、何のための「法廷」か)


【謝罪・補償よりも天皇の戦争責任?】
「戦争責任─天皇責任」を女性から追及する「本来の」視点に立てたことを「歴史的飛躍」と自画自賛。「戦後責任・戦後補償」の提起とそこから展開したさまざまな活動をまったく理解できず、(だからなのか、当時、活動を推進もせず、「戦後補償ネット」などの現場にも参加しなかった氏らしく)10年近くも遅れてきて、天皇の戦争責任をいうことが「正しい運動」であると、自分の運動への「引きつけ」を行ったのだ。
日本の女性運動の先人たちを著書で「反体制を貫かなかった」とバッサリ処断した鈴木氏らしく(上野千鶴子氏の批判を受けた)、「性と天皇制を考える」運動だけが「正しい」という立場を全面展開したのである。
これが、鈴木裕子氏の「慰安婦」問題へのスタンス。天皇の責任と断じたら元「慰安婦」女性は満足するのだという「立場」なのだ。
被害当事者の権利・要求によって求める謝罪、賠償、補償より、天皇の戦争責任追及運動こそが正しいといい切ったという点で、鈴木氏は「歴史的飛躍」をし、天上世界へ一人駆け登ったのではないかと思われる。
「慰安婦」問題をどのように早く解決するか、被害者に答えをだすか、とやってきた者から見ると、「慰安婦」問題からどこまで遠くへ行けるか──といっているという感じがする。つまりは「本当の本質、天皇制を問題にする」認識までゆくべきだという自己思想への導入を図っているに過ぎない。

【反体制運動と「慰安婦」被害者の沈黙】
「慰安婦」被害者たちと「法廷」──の視点で見てみよう。
「法廷」では、一部「慰安婦」被害者に「基金」を受け取りたいという人たちもいた形跡がある。こうした被害者の意思や行動が以前から「反対・反体制・反日運動」から無視され攻撃され封じられてきた経過がある。その延長線上の運動として(合流して)プログラムされたのが今度の「民衆裁判」だったと見ることができる。
「沈黙と不処罰」の連鎖を断つという、それなりの理念をいいながら、これまでの運動自体が被害者をしばり運動の中で「沈黙」を強いてしまう。そうした体質と活動の結果は不問にし、アジア女性基金が悪い、「天皇制」が本質的に問題などと、問題をつねに外に求めずれ込んでいく…総括が出てくる。

この「法廷」とは、いったい何なのか? 「慰安婦」への解決のためのプログラムではないのか?
「反基金・原則主義」の一部支援者と「慰安婦」被害者との間で、ズレもあるのだが、何しろ「支援」され「弱い」のが被害者。「被害者自身の選択」「独自の行動」は、できにくい状況が温存され、つづいている。
支援・運動はそれなりの活動・理論をもつだろう。しかしそれが「中心」となってしまい、被害者を「それにそって解釈し動かす対象」と見ることになったとしたら、本末転倒というものだ。

【歴史的飛躍とは】
戦後補償の活動では、鈴木氏らがいまさら指摘するまでもなく、10年前から「事実─責任─補償」という道筋を問うてきた。「訴訟、訴状」ですでに天皇制の戦争遂行下で国家が起こした問題だということはずいぶんといっている。明治帝国憲法下では「国家無答責」であり、それをカベを越えるために法律論もやっている。(判決でも国家無答責論が使われている。)
これまでの活動で法的、人道的・道義的責任それぞれについて、自分たちの「戦後責任」を含めて問うてきた。その過程で、まず「被害者への答え」を引きだす、なおかつ「日本の戦後処理─補償」を問い直そうとしてきた。

大体、法的責任にこだわる補償論は戦争責任、天皇制国家主義の戦争責任追及に走る。戦後責任というとき、自らの責任(アジアなどの被害者への責任を問題にしてこなかった責任、戦後の政府をかついでいる責任)をも問題に設定してきた。そして戦後50年を間近にして、被害者に対して「答え」を出すため社会・政治に働きかけてきた。訴訟は民事訴訟であり、事実・責任の所在を争い、戦後現時点での現状回復・補償を求めているのだ。

【思想の確認のためか?】
つまるところ日本の天皇制が悪い、反体制の信念を固めるための運動と考える思考の人たちは、実はあまり実際活動をしてこなかった。結論は「わが思想の確認」にあるからだ。ぼくらは個々がこの連続する政治・社会・個人の「戦後」を問いながら、裁判・行動で「いま何を被害者に何を答えるか」と活動し、奮闘してきた。「天皇制、天皇の責任」をいいだしたことに「歴史的飛躍」があるなどという「観念・思想」は、まったくチンプンカンプンといわざるを得ない。こちらが正しいというのではなく、ここへきて「戦後責任・戦後補償」の運動をまったく間違った視点だったかのようにねじ曲げられてはたまらないから、いうのである。
(鈴木氏らが「つぶせ!国民基金」といった運動に走ったのも、自分らの「思想」のために、他を裏切りだの転向者だのと、ただただ批判・破壊しようとしただけだった。)

【感動を被害者に求め、権威づけを被害者に求め…】
鈴木氏をはなれてみても、「法廷」に感動したという「感想」もネット上にちらほら見える。ほんとうに彼女らの話を聞いて、もっと深い問題だと思うなどと吐露し、いままでロクに彼女らと接触もせず話も聞かず「運動」をやってきたことを自ら暴露するような感想が語られている。

来日し「法廷の権威」に座った欧米系の法律家の発言の中に、「本当にこの法廷の主役は被害者であり、法廷を権威づけたのは被害者たちである」(要旨)と恰好をつけた物言いがあるらしい。「傍聴者」も「検察・裁判官ら知識人」も、そよような被害者への寄り掛かりを行いながら、その実、知的なサークルの(知識人の)「運動」の論理や都合まるだしの「判決要旨」──「判決」へすでに動き出している。

被害者たちに何をもたらしたのか? 
「法廷」はまずそのことに、自分たちに、判決すべきだった。また、90年代までに、日本で自ら歴史事実を掘り起こし、理論化し、実際活動として被害者への「結果」を出す作業を、なぜできなかったのか。戦後日本で、自ら「アジア太平洋戦争」を総括しえなかったのはなぜなのか。そういう「歴史的反省」から始めるべきだったろう。歴史家、学者、運動家…も含めて「責任」を感じるほかないように、「慰安婦」問題は始まったことを忘れてはならない。提起したのは本人だったのだ。(いまだに「証言」よりは「文書」ひとつが出ればいいという立場の学者がいる。)

【東京裁判の焼き直し?】
近年の東欧やアフリカその他での「紛争下の性暴力」の「典型的事例」──日本の「慰安婦」制度で「連鎖を断ち切るために責任者処罰を」しなければ都合が悪いという観念が、この「法廷」に流れたといえないか。と同時に、「東京裁判をわれわれ自身でやり直す」という気概はいいとして、奇妙にも「アジア」と「欧米」への怖れと崇拝観念を(差別と拝跪といってもいい)、実は二つながら「権威」にして「酔う」ような実態があったのではないか。かえって「東京裁判」のもつ問題をそのまま繰り返したのではないかと思えるがどうだろう。

アジア(の被害者)に対する「知的な理解」は、往々にして自分(自己責任)への甘えを許し体内に差別を隠し温存する。そこから旧態依然の、「欧米」への憧憬と崇拝観念に通じてしまう。まさに「東京裁判」のやり直しの期待は、日本での「われわれ」の現在を問うという拡がりにつながるのではなく、「欧米の正義・法的観念」の(権威の)前に感動して心情を満足させるだけではなかったのか? アジアの被害者の立場に立つと称して自分を「正義」に位置づけ、「天皇」「戦争責任」を他方において攻撃する…。
繰り返すが、被害者たちに何を答えるのか? このために、自らできることを営々とつづけ、ぎりぎり可能性をさぐる。そういう日常の活動が空疎であればあるほど、「理論」の「歴史的転換」だの「飛躍」だのと総括してしまう。客観的な状態をつかまず、心情や自らの弱さ、痛み、傷は隠して。

【被害者が主役ともちあげて…その実?】
「慰安婦」問題での天皇制国家の法的責任を、政府・国会で明確にしなければ「被害者は納得しない」「補償(カネ)よりも天皇責任」というが、それらは10年前に裁判「訴状」でそれぞれがすでに立て、展開した「総論」である。イロハのイである。

いまから、では、どんなプログラム、行動を準備しているのだろうか。
まず、個人補償を認めず対立する裁判判決、国会での天皇責任で謝罪させる「立法不作為」をつき、実行させるため日常活動を徹底するしなかないだろう。右翼に立ち向かうことで「反体制気分」を高めるだけでは何も始まらない。右翼よりも強固なカベは、「民主的に」徹底した権威・権力となっている、司法、行政、立法府なのだ。しかもそれを「わたしたち」が「思想」と「生活」によって現実に支えている。
猪突猛進か日常の不断の活動か。「立法解決」の「補償法律案」をつくり、死に物狂いで「賛同国会議員」多数派を獲得する活動が行われているとは、とても思えない。それとも、ただ反体制の意識を高めることが目的なのだろうか。

まあ、運営・会計報告で、欧米系の「法律家」たち、被害者たちは招待なのか。それとも「NGO」運動らしく皆それぞれの負担、自費だったのか──そういう実態が早く公開されるなら、より今度の「法廷」の性格がくっきり見えてくるだろう。
伝え聞くと、かなりの「慰安婦」被害者が「自費」もしくは「各国NGO負担」だったようなのだが、どうなのだろう。「欧米法律家、招待」「被害者は自己負担」だとすると……。

 
 
*私見──

「法廷」の評価は、「慰安婦」問題についての「解決とは何か」が明らかになったかどうかにかかる。
基軸は、事実調査を進めること、責任のあり方・問題の所在を明らかにすること、被害者の意思とその「解決策」を実行すること…を明確にすることだと考える。課題は10年来、設定され、さまざまな人々がかかわってきた。その上に乗った「法廷」だから、いわば成果の上に、より意味ある成果を端的に積み上げなければならないはずだった。

「法的な手続き」は疑似的と自覚してこの「法廷」は行われ、ボランティア参加もあったたようだが、結局は「法律家」「学者」──理論依存、「法的追及」に傾いたのではなかったか。
「法」への偏重自体が、平たい実際的な「課題解決」の道をうやむやにする。
「法」(観念と方法)が、一般に、実態にそぐわず実に遅れていて、その範疇に頼り切るような「運動」には疑問がある。具体的課題に対してやるべきことは、法的・人道的・道義的に、あるいはまた政治的・社会的・経済的に「被害者と被害状態」の回復と未然防止のプログラムを実行することだと考える。

初志が方向づけをする。
法的責任 → 戦争責任 → 国家賠償 (素人の法的談義・理屈)
事実・被害者 → 戦後責任 → 広義の戦後補償 (事実を知り被害者に向き合う)
という傾向がある。
被害者の実態と支援の活動をとおして、自己責任、戦後責任の観点から「被害者への解決」をはかることこそが「ひろい運動」になり現実に結果を生みだすと考える。そうした参加・提案の活動をとおして、結果として「理論化」は進む。過去集積・過去追及型よりは、現実化のプロセス(政治過程参加・社会活動)であれやこれや試行錯誤して、被害者とわれわれ自身が結果を生み出す──主体的・体験的に、生活上で「変わる」「変える」ことが大事なのだ。理論や「法」「制度」は、ひとに「やれ、つくれ」というだけではなく、自らつくりだすものだと考えている。

理論だの確信だの信念だのを獲得・強化して「よし」、なのではない。自分もふくめて実際的に「被害者と被害状態」に対して、より前進した「変わった結果、環境をつくりだすことが課題なのだ。