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「従軍慰安婦」と「アジア女性基金」──韓国マスコミはどう伝えたか

「従軍慰安婦」と「女性基金」──韓国マスコミはどう伝えたか

  綛谷智雄(かせたに ともお、KASETANI,Tomoo,   韓国・高麗大学、中国・延辺大学講師)
    *月刊誌「論座:RONZA」(朝日新聞社発行、1998年11月号)掲載
 

「従軍慰安婦問題について、先輩はどう思いますか」
 今年の春、私の研究先(韓国・高麗大学)の大学院に入ってきたばかりの女子学生、ヘヨンが私にたずねた。
「従軍慰安婦問題」は一九九二年、宮沢喜一首相訪韓の前後にクローズアップされ、当時すでにソウルにいた私は、学生たちから同じ質問を何度も浴びせられた。しかし、そのころの学生たちと比べると、ヘヨンの態度ははるかに冷静で、口調も感情的ではなく詰問調でもない。なによりも、六年前は「挺身隊問題」と表現されたが、ヘヨンは「慰安婦問題」と言った。
 宮沢訪韓当時、韓国の新聞は「従軍慰安婦」を指すことばとして「挺身隊」という用語を圧倒的に多く使っており、「慰安婦問題」と言われてもピンとこない読者がほとんどであった。しかし現在、韓国のマスコミ報道においても「慰安婦」と表現するケースが多くなってきており、「慰安婦問題」と聞けば、皆一様に「ああ、あのことか」という顔をする。このように、慰安婦問題をめぐる韓国社会の状況には確実に変化が見られるが、この問題が依然として日韓間の懸案事項であるという事実にはいささかの変わりもない。むしろ、日本の政治家による「妄言」や、補償問題をめぐる摩擦の強まりによって、問題はいっそうこじれつつあるような印象さえ受ける。
 慰安婦問題をこじれさせている原因のひとつは、日韓における相互理解の不足にあると見られる。すなわち海峡の対岸で、この問題がどう論じられているかについて、双方ともにあまりにも知らなすぎるのである。
 日本側にとって何より必要なのは、韓国において、従軍慰安婦問題がどのようにとらえられてきたかを知ることではないたろうか。それがなされないまま問題の解決を図ろうとするならば、せっかく知恵を絞った対策もその効力を十分に発揮することはできず、場合によっては逆効果にすらなりかねない。
 私は日本にいるころから「従軍慰安婦」問題に関心を持ち続けてきており、私がソウルで生活を始めた九〇年から、この問題は日韓両国間の懸案事項となってきた。したがって、語学(朝鮮語)研修と研究活動で過ごした約八年間の韓国での生活体験を通して、九〇年代の韓国における慰安婦問題の流れを、ある程度は示すことができるのではないかと考える。
 そこで、本稿では新聞を中心とした韓国マスコミの報道姿勢や市民団体の反応などを振り返り、慰安婦問題が韓国社会でどのようにとらえられてきたかを概観してみたい。

二人の女性が提示した「挺身隊問題」

 第二次大戦中、日本兵の性的欲求のはけ口である「従軍慰安婦」として動員された朝鮮人女性は数万とも推測されているが、その実数は定かではない。従軍慰安婦の実数は日韓両国においてある程度は知られていたが、この問題が社会開題化するのは朝鮮の解放(日本の敗戦)から半世紀近くも過ぎたれ九〇年代に入ってからである。
 そのきっかけとなったのが、梨花女子大学のユン・ジョンオク元教授のルポである。ユン氏は一九八〇年から八九年まてに北海道、沖縄、タイ、パプアニューギニアにおける朝鮮人慰安婦たちの足どりをたどり、その結果を九〇年一月に四回にわたって「ハンギョレ新聞」に発表した。
 このルポが起爆剤となり、韓国社会では女性連動団体を中心に「挺身隊問題」への関心が高まっていく。そして同年十一月には、複数の女性団体の参加による「挺身隊問題対策協議会」(以下「挺対協」)が結成される。ユン氏はこの「挺対協」の代表(現在は共同代表)となり、今日に至るまで「挺身隊問題」にかかわる運動の中心人物として活動を続けている。
 ユン氏のルポに続いて「挺身隊間題」がより広く社会的関心を持たれるようになる契機となったのは、自らが「挺身隊」であったことを韓国で初めて公表したキム・ハクスンさんのマスコミへの登場(九一年八月)である。
 儒教的貞操意識が現在でも強い韓国社会において、慰安婦であった過去を公表したキムさんの告白は、まさに衝撃的であった。その後キムきんに続き、数人の元慰安婦たちが名乗り出て、「挺身隊問題」に対する社会的関心はさらに高まっていった。
キムさんは同年十二月、他の元従軍慰安婦や元軍人・軍属、遺族らとともに日本政府を相手取って戦後補償裁判の原告となり、いっそう注目を集めることになる。
 この裁判には原告たちが所属する「太平洋戦争犠牲者遺族会」(以下「遺族会」)の支援団体である日本の支援団体である「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(以下「ハッキリ会」)が弁護士・通訳から宿泊・交通などにおいて大きな役割を果たしているが、そのことについて韓国の新聞はほとんど触れていない。「朝鮮日報」(九一年十二月七日付)は、この訴訟に関して加藤紘一官房長官が従軍慰安婦と日本政府機関との関係を否定した談話を「妄言」として一面トップで報道している。記事にはチマ・チョゴリに「遺族会」のたすきをかけたキム・ハクスンさんが涙を拭う姿の写真が添えられた。

宮沢訪韓と「小学生挺身隊」

 九二年一月、宮沢首相の訪韓を前に、韓国マスコミの「挺身隊問題」報道は、さらなる盛り上がりを見せる。まず従軍慰安婦に日本軍が関与していた事実を日本政府が認めたことが大きく報道され、続いて「小学生挺身隊」問題が各紙で大きく取り上げられた。これは第二次大戦末期に「京城」(現在のソウル)で小学校の教師をしていた日本人が、教え子である朝鮮人児童を勤労挺身隊として送りだしたという証言がもとになっている。
 このニュースを伝えた各紙には「挺身隊」と「慰安婦」の混同が見てとれた。「東亜日報」の見出しは「挺身隊、小学生まで引っ張っていった」(一月十四日付)、「朝鮮日報」は「日本、小学生も挺身隊に徴発」(一月十五日付)と、あたかも朝鮮人小学生までもが従軍慰安婦にさせられたかのような印象を与えるものとなっている。
「朝鮮日報」の名物コラム「イ・ギュテコーナー」は「小学生挺身隊」と題して、「日本総理の謝罪はもちろん、被害者のおばあさんたちへの補償だけで終わる問題ではないことを、この小学生挺身隊のまなざしが民族の良心に訴えかけている」(一月十五日付)と高い調子でつづっている。
 また「東亜日報」も「十二歳の『挺身隊員』」と題した社説(一月十五日付)で、「十二歳の小学生まで動員して戦場の性的おもちゃとして踏みにじったという報道に、あらためてわきあがる憤怒をおさえることが難しい」と述べている。特に同紙の四コマ漫画「ナデロ(『私なりに』の意)先生」はこのテーマを連日取り上げ、「日本は経済動物。十二歳の挺身隊を考えると、犬にも劣る……(一月十七日付)と激しい敵意をあらわにしている。
 このように「反日」ムードが高まるなか、宮沢首相は訪韓し謝罪したが、韓国ではそれを評価する報道は皆無であった。結局、宮沢訪韓は慰安婦問題に始まり、解決の糸口も見いだせないまま終わった。
 しかし、従軍慰安婦問題を世間一般に広く知らしめ、この問題が日韓間の重要な問題であることを確認したという意味において、宮沢訪韓は大きな〃成果〃を上げたと評価することができるのではないだろうか。

ことばの混同・誤用が阻む客観的な視点

 前述したように、韓国社会に大きな衝撃を与えた「小学生挺身隊」問題は、「挺身隊」と「慰安婦」の混同・誤用によるものであったと私は考える。ユン・ジョンオク氏のルポに始まり「小学生挺身隊」に至るまで、韓国のマスコミは従軍慰安婦を指すことばとしてもっぱら「挺身隊」という用語を使用してきた。しかし韓国政府が「日帝下軍隊慰安婦実態報告書」を発表する九二年七月あたりから、韓国マスコミの表記法には若干の変化が見られはじめ、「慰安婦」と「挺身隊」の併用となる。その後も用語は統一されぬまま現在に至っており、昨年の記事を見ても、「中央日報」が「日本、挺身隊慰労金一方的支給」(一月十二日付)という見出しを一面に掲げ、「東亜日報」が社説(一月十四日付)で終始「挺身隊」という用語を使用するなど、「挺身隊」と「慰安婦」の混同はいまだに続いている。
 しかし、最近のマスコミ報道においては「慰安婦」と表記することが増えており、冒頭の女子学生ヘヨンの発言からもうかがえるように、「挺身隊間題」というよりも「慰安婦問題」と表現するほうが一般的になりつつある。
 私が宮沢訪韓当時、学生たちを相手に「挺身隊」と「慰安婦」と「挺身隊」の混同・誤用を指摘すると、彼らは「そんなこと言っても、こっちは被害者なんだから仕方ないでしょ」と感情的な反応を示すことが多かったが、その態度にも変化が見られる。
 先日、ある男子学生と話をしていたら慰安婦問題に話題が及んだ。「『挺身隊』と『慰安婦』の混同・誤用は、揚げ足取りの機会を狙う日本の慰安婦問題否定派に利用されてしまう恐れがあるので、用語は正確に使うべきだ」という私の意見に、彼は大きくうなずいた。
 韓国側に用語の混同・誤用があるとはいえ、その揚げ足を取って「韓国側の主張は捏造だ」と言い張ることは、中国が主張する南京大虐殺の数字が不正確であるとして、南京大虐殺そのものが「まぼろし」であったと主張することと同様に、客観的な態度であるとは言いがたい。「小学生慰安婦」問題にしても、その真偽の前に、年端もいかない児童を工場労働者として動員し、長時間労働に従事させたことは強制連行・強制労働にほかならない。従軍慰安婦問題は言うまでもなく重要な戦後処理問題であるが、軍人・軍属、労働者、BC級戦犯問題など、その他の戦後補償問題をも視野に入れて考えられなければならない。

補償問題をめぐる韓国マスコミの論議

 九三年七月、日本政府は元従軍慰安婦十六人を対象に、初めて現地聞き取り調査を実施した。調査はソウルの「遺族会」事務所で行われ、報道関係者が大挙つめかけた。
 調査を終えて部屋から出てきた一人の元慰安婦は、慰安所で覚えた歌を思い出せず、調査官の前で歌えなかったことをしきりに残念がった。彼女はしばらく思案したあと「思い出したよ」と手を打ち、「さらばラバウルよ……」と歌いだした。哀感のにじんだ表情で歌う旋律と歌詞の正確さに、その場にいた私は、彼女の慰安所での生活の一端をかいま見たような気がした。
 この聞き取り調査をふまえて八月に発表された河野洋平官房長官の従軍慰安婦問題に関する談話を、韓国の各新聞はトップニュースとして報道した。談話の内容は、慰安婦の募集・移送、慰安所の設置・運営に軍の関与があったことを日本政府が公式的に是認して謝罪するものであった。
 これに対する各紙社説の反応は、これに対する各紙社説の反応は「評価派」と「不満派」に分かれた。「評価派」の「朝鮮日報」は、「日本政府の従軍慰安婦問題についての談話を日本政府による公式的謝罪と受け取るのには大きな問題はないように思われる」(八月五日付)と述べ、「中央日報」も「誠意と努力の痕跡が見られるという点を評価しようと思う」(同日付)と高い点をつけた。
 一方、「不満派」の「東亜日報」は、「不十分な感じを受けるというのが正直な気持ちだ」(同日付)と述べ、「ハンギョレ新聞」も「国民的自尊心が許さない」と強い反発を示した。
 ここで注目されるのが「朝鮮日報」と「ハンギョレ新聞」の主張の違いである。「朝鮮日報」の社説のタイトルは「補償はわれわれがしよう」となっており、同年三月に韓国政府が発表した「日本に補償を求めず」という立場を支持するものであるといえる。社説は次のように結ばれている。
「国際化という切迫した課題に直面しているわれわれには、日本との協力を適して、また日本を媒体として進めなければならない多くの問題を抱えている。従軍慰安婦問題はその性格において愉快なことではない。日本政府の謝罪を契機にわれわれが補償を引き受けてこの『恥ずべき過去』の章を閉じてはどうであろうか」
 その翌日の「ハンギョレ新聞」の社説は、これに対して全面的に異を唱えるものであった。同紙は、「朝鮮日報」の主張に対して「驚きと怒りを禁じ得ない」として、「従軍慰安婦問題はわれわれの恥ずべき不愉快な過去ではない。(それは)日本にとって恥ずべき不愉快な過去である」と反駁している。
 のちに、慰安婦補償問題においては「朝鮮日報」と「ハンギョレ新聞」は意見の一致(「日本政府が補償すべき」に意見統一)を見るが、この問題以外でもさまざまな政治問題に関して、この二紙は明らかな意見の相違を示す場合が多い。
 保守色が濃厚な前者と創刊時から革新を旗印にしている後者の対立は、避けようのない宿命のようなものであると言えよう。

最初から難航した「女性基金」の活動

 朝鮮半島が植民地支配から解放されてから五十周年の九五年夏、日本政府の支援による民間基金「女性のためのアジア平和国民基金」(「女性基金」)構想確定のニュースが韓国に伝えられた。以前から「女性基金」をめぐる動きに神経をとがらせてきた「挺対協」をはじめとする韓国の社会団体は、即座にこの構想の撤回を要求する声明を発表する。これが「女性基金」をめぐる一連の日韓摩擦の始まりであった。
 「女性基金」は翌九六年、橋本龍太郎首相の「お詫びの手紙」を添えた「償い金」を同年八月から元慰安婦被害者たちに支払うことを決定する。これに対して「挺対協」は支払い決定の撤回を求める声明を発表し、台湾・フィリピン・韓国などの被害者と民間団体、そして国会議員までも国民基金に反対する立場を明らかにし、撤回を要求しているにもかかわらず、国民基金支給の決定を下したことは、被害国国民を無視し人権を冒涜する行為」と強い反対の意を示した。
 その後、日本政府は、「償い金」の受け取りが元慰安婦被害者たちの訴訟権とは無関係であることを明らかにするが、これに対しても「挺対協」は、「われわれがこのカネを受け取れば、日本政府の立場を認めることになり、日本政府は国際社会から免罪符を受けることになる」と反発した。
 一方、韓国政府も「女性基金」に冷ややかな態度を示す。八月七日付の「朝鮮日報」は外務部関係者のコメントとして、「さる五日に彼ら(引用者注、女性基金関係者)と非公式に会談し、(被害者名簿の提供など)日本側の要求を受け入れられないという政府の立場を伝達した」と伝えている。
 このように韓国における「女性基金」の活動は当初から難航し、韓国人元慰安婦への「償い金」支払いは結局なされぬまま九六年は幕を閉じる。そして翌九七年初頭、韓国人被害者に対して初めて「償い金」が支払われ、大きな波紋を呼ぶことになる。

韓国政府が支給した「支援金」

 九七年一月十三日、韓国の各新聞は韓国人元従軍慰安婦七人が「女性基金」の「償い金」を受け取った事実をいっせいに報道した。各紙は「慰安婦慰労金支給強行」(「朝鮮日報」)、「慰安婦被害者慰労金、日本の民間基金が『支給強行』」(「東亜日報」)などの見出しをつけ、「女性基金」の行動が「一方的」であると強調した。社説も、「日本政府に対する国家賠償要求」という論調で統一され、「下品な日本の『慰安婦解決策』」(「ハンギョレ新聞」)、「政治大国にはほど遠い日本」(「中央日報」)など、強い反感を前面に出している。
 また「挺対協」関係者はこの「支給強行」について、「(元慰安婦たちのうち)一部が基金を受け取ったとしたならば、(それは)日本の基金関係者の執拗な懐柔にだまされたためであろう」(「朝鮮日報」)とコメントしている。
 「女性基金」に対する反発は新聞報道のみにとどまらなかった。その年の三月一日(三一節、一九一九年に起こった独立運動を記念する日)、民放のSBSテレビは元慰安婦たちや「挺対脇」のユン・ジョンオク共同代表などをスタジオに招き、証言と再現フィルムによってこの問題に関する社会的関心を喚起し、元慰安婦たちの生活援助を目的とする募金への協力を視聴者に訴える特別番組を生放送した。
 この番組では「女性基金」が支払った「償い金」は「黒いカネ」と表現され、先にも触れた日本の市民団体「ハッキリ会」の代表である臼杵敬子氏がその「思いカネの伝達者」であると、名指しで非難された。
 その後「挺対脇」は、臼杵氏の韓国入国禁止を求める要望書を提出し、結果的に韓国政府による入国禁止措置が下されることになる。この決定と「挺対脇」の要望書の因果関係は明らかではないが、これはまぎれもなく、「女性基金」に対する韓国政府による反対の意思表示であると解釈できよう。
 さらに九八年五月に韓国政府が元慰安婦被害者たちに一人当たり三千四百五十万ウォン(約三百八十万円)の「支援金」を支給したことも、「女性基金」による「償い金」支払いを未然に防ごうという目的によるものであったと考えられる。
 彼女たちが「支援金」を受け取るにあたって、「女性基金」の「償い金」を受け取らないという覚書を提出していること、また、すでに「償い金」を受け取った元慰安婦たちが「支援金」支袷対象から除外されていることが、それを裏付けている。

手詰まり状態を打開するために

 以上のような流れを見ると、韓国の政府・市民団体・マスコミが一体となった封じ込め作戦の結果、日本側の「女性基金」の活動は、現在手詰まり状態に陥っていると言えよう。
 従軍慰安婦問題に関しては、日本国内でもさまざまな意見がある。私は、日本政府による個人補償が望ましいと考えているが、日本政府の消極的な態度や補償立法にかかる時間などを考慮すると、次善の策として「女性基金」にも反対しない。
 慰安婦動員、慰安所設立・運営に日本軍がかかわったのはまぎれもない事実である。慰安婦問題の本質は、軍の管理の下、脱出が困難な慰安所という空間で、女性たちに対し日常的に性の搾取が行われていたことであり、慰安婦動員における強制性のみにあるのではない。
 また、慰安所での生活は平穏なものであったと主張する日本の論者もいるようであるが、それを一般化するのは少々無理があると言わざるを得ない。多くの元慰安婦が梅毒などの性病に苦しんだ経験を持ち(後遺症を抱えている人もいる)、子宮摘出などの手術を受けた人も少なくないという現実に接すると、私には慰安所の生活が平穏であったとはとても想像できない。
 冒頭で紹介したヘヨンが私に言った。
 「先輩、『女性基金』が民間の基金だと言うんだったら、慰安婦だったおばあさんたちは、『女性基金』を受けて、韓国政府から『支援金』も受け、日本政府から個人補償も受ければいいんじゃないですか」
 私はうなずきながら考えた。そう、補償問題に関しては、私も君と同じ意見だ。わずかな額ながら、私も「女性基金」に気持ちを託している。しかし、元慰安婦たちの踏みにじられた人生は、金銭では決して修復できない。
 ヘヨン、われわれになによりも必要なのは、被害当事者の生の声に耳を傾けることだろう。そのうえで、君と私が今しているような、冷静かつ率直な対話を重ねていけば、暗雲が立ち込めた海峡にも、薄日が差し始めるのではないだろうか。(文中、政治家の役職等は当時)

 かせたに・ともお KASETANI,Tomoo. 一九六二年、大阪市生まれ。神戸大学卒、韓国・高麗大学大学院修了。
  一九九八年九月から中国・延辺大学講師。専攻は社会学(エスニック、民族問題)
 
 

 *月刊『論座:RONZA』掲載の記事を資料として転載させていただいた。
 *以前掲載していたこの項で、転載者の不注意により、相当部分が抜け落ちていたことを深くおわびします。
  筆者の指摘をいただき、訂正しました。2001.5.25, 2001.6.23
  筆者は現在、在韓国。