ニューヨーク通信
はじめに(目次) 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 参考文献 絵手紙
5.9月11日のテロ事件とその後
- 惨劇は帰り支度を始めた矢先に起きた(9月11日)
- ニューヨークで聞く戦争反対の声(9月12日)
- ニューヨークからの最後のメール(9月14日)
- 予定通りニューヨークを出る(9月15日)
- ヴィクトリアでも平和集会(9月20日)
惨劇は帰り支度を始めた矢先に起きた(9月11日)
2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレード・センター(WTC)とワシントンのペンタゴン(米国防総省ビル)にテロリストのハイジャック機によるアタックがあり、数千人の命が一瞬に奪われて、世界に衝撃が走りました。
留学先のニュースクール大学はマンハッタンの5番街の、北にエンパイア・ステート・ビルが見え、南にWTCのツインタワーが見えていた位置にあります。あのツインタワーには留学中何度か足を運びました。8月半ばに子どもたちが来たときと、9月初めに知人が来たときは、南棟(2回目に攻撃を受け最初に崩れ落ちた第2ビル)の107階にある「トップ・オブ・ザ・ワールド展望台」にも登りました。そこから見下ろすニューヨークの夜景はいかにも平和に思われました。しかし、あの日からすべては一変しました。
事件は遅い朝食をとって、CNNテレビを観ているときに始まりました。午前8時50分頃だったか、画面が急にWTC北側の第1ビルの上部壁面から煙が出ているシーンを映し出しました。9時過ぎには南側の第2ビルに飛行機とわかる黒い影がぶつかって爆発し、ツインタワーが二つとも炎上し始めました。その後、ペンタゴン(米国防総省ビル)も攻撃を受けたというニュースが流れ、パニックのような状況になりました。ツインタワーはニューヨークのランドマークであり、アメリカ資本主義の象徴でもありましたが、その一方の南棟が午前9時59分に、また北棟が午前10時28分に、もろくも崩れ落ちて瓦礫と二つとも瓦礫と化しました。
日本でも詳しく報道されたのでご存知でしょうが、テレビの画面に映るWTCの現場とその周辺の光景はまるで大地震か大空襲のあとのようでした。悲鳴と泣き声が始終聞こえ、救急車が行き交い、黒煙が立ちこめる。レポーターは人々が逃げまどう姿を実況しながら、「これは映画のシーンではありません。これは現実です」と叫んでいました。「これは戦争です。私たちの仕事を超えています」と語っていたレスキューの人もいました。九死に一生を得て生還した人々や、街を歩いていて倒壊の爆風と粉塵に巻き込まれた人々は、灰まみれ、傷だらけで、まるで戦場の惨状のようでした。死傷者の数は、午後10時現在も、数千人の命が失われたと言われるだけで正確なことはまだわかりません。
*ニューヨーク市当局の2001年12月10日の発表によれば、WTCのテロ事件の死者・行方不明者は当初発表より大幅に減って3045人になった。
今日のCNNニュースは「攻撃下のアメリカ」というタイトルのもとに、特別報道態勢をしいています。アメリカがこのように攻撃されたことはかつてなかったことです。テロは絶対に許されませんが、ブッシュ大統領は、これを「戦争」といい、「われわれに誤りはない。犯人や協力者には必ず報復する」と言っていることからも、強硬路線に出るでしょう。しかし、それは新しい危険を招く恐れがあります。
マンハッタンは現在、戒厳令に近い統制下におかれています。今日は空港、橋、トンネルが閉鎖され、地下鉄もストップして、証券市場の取引も無期限停止になっています。朝、第1回目のアタックがあったときまでは、CNNに出るダウの予想(future)は上昇を伝えていましたが、アタックのあとは、急に大幅な下落となり、実際に市場が始まる時間には閉鎖になりました。最近の経済指標や株価の動きは、景気が悪化し不況に突入する兆候を示していましたが、このテロで不況が強まることは必至です。観光や消費がダメージを受けるだけでなく、製造業から金融、サービスにいたるまで経済活動全般が深刻な影響をこうむるでしょう。状況は違いますが、1995年に日本で起きたオーム事件と阪神大震災が日本の不況悪化の心理的なシグナルとなったことを思い出します。
ニューヨークで聞く戦争反対の声(9月12日)
9月11日のテロ事件の翌日、こちらでお世話になっている先生に会う約束があってマンハッタンに出ました。地下鉄が間引き運転で、いつもならマンハッタンの南端やブルックリンまで行く線も、途中駅が仮の終点になっていました。そこで、タクシーを拾い、まずはリンカーンセンター近くのレコード屋に行き、子どもたちから頼まれていたボブ・ディランの新曲CD(Love And Theft)などを買いました。そのあと、またタクシーを拾い、大学に向かいました。運転手は黒人の女性で、話はおのずとWTCとペンタゴンの攻撃のことになりました。
彼女が真っ先に言ったのは「敵はアメリカにいる」ということでした。私が「テロリスト・グループの中にはカナダから入った者もいると聞いた」と言っても、「それは知っている。しかし彼らはアメリカにいた」ことを強調していました。私がこわごわ「大勢罪のない人々が殺されたが、アメリカ軍も外国で同じようなことをしている」と言うと、彼女は「私もそう思う。ベトナムでも、イラクでも、パレスチナでも罪のない人たちがアメリカ軍によって殺されてきた」、「アメリカは自分で自分の敵を作っている」、というのです。アパートを出る前にメディアの調査で、9割の人が報復戦争を支持すると答えたというCNNのニュースをみてきたあとだっただけに、彼女の歯に衣を着せぬ物言いに驚きました。
14丁目のユニオン・スクエアから南は車の立ち入りが禁止されていたので、12丁目で降りて、ニュースクール大学にまで歩きました。5番街の大学の前からは、北にはエンパイア・ステート・ビル、南にはWTCのツインタワーが見えていましたが、ツインタワーのあった空間はぽっかり穴が開いて、ただ煙りだけが空を覆うようにが立ち上っていました。待ち合わせの時間まで少し間があるので、大学の辺りをぶらぶらしていると、日本語の会話が聞こえてきました。二人はどうやらこの大学の日本人学生のようです。
男子学生の言うには、ツインタワーから4ブロックの距離に住んでいて、昨日はいつものように眺めている目の前でアタックが始まった。二機目のジェット機が激突するところも見た。炎上するところも見た。高い階の窓から人々が次々に飛び降りるのも見た。倒壊して爆発したようになったので窓を閉めて閉じこもった。その後は見ていない。今日は立ち退きを命じられて友だちのところにいる。通りは自衛隊(彼はアメリカの軍隊のことをこのようにいう)に固められている。海にも自衛隊が来ている。キャナルストリート(チャイナタウンのある地区)から南には入れない。ここ(大学のあるところ)も一応歩けないことになっているが、みんな住民のような顔をして勝手に通っているのだそうです。
5時半に約束のポール・マティック・Jr先生と会って、アメリカ式のパブのようなところに行きました。彼は私と同世代で、独占資本や恐慌についての本のある同名の父親は1930年代にドイツからアメリカに来たそうです。彼とは今回のテロアタックと、今後の政治経済について話しました。アメリカは過去には1812年〜14年の米英戦争でのイギリス軍からの攻撃と、1941年のパールハーバーへの日本軍からの攻撃以外には直接攻撃を受けたことはなかった。パールハーバーは本土ではないので、本土が攻撃されたのは米英戦争以来だ。それも信じがたいほど周到な準備と高度の技術で合衆国の心臓を突いた。その心理的衝撃は計り知れない。不況に入り始めていた経済はいっそう悪くなるだろう。軍事的強行路線が強まるだろう。それに反対する動きもあるが、いずれにしてもこれで歴史は変わった、というのが彼の見解です。
夕刻、ユニオン・スクエアに戻ると、大学でビラをもらったテロの犠牲者を悼むキャンドルライトの集いが開かれ、300人ほどの人々が手に手に蝋燭をもって集まっていました。
集会が始まるまでの間、集まった人々は、めいめい地面に広げられた大きな長い紙に、哀悼のことばや平和を祈ることばを書いていました。ある男性は私の目の前で、「われわれはバグダードで何をしたか」という意味のことを書き込みました。すると、そばでそれを見ていたもう一人の男性が「バグダードに何の関係がある。アメリカ人がアメリカで殺されたのだ。お前はアメリカ人か」と食ってかかり、突然、「こんなことを書きやがって」という感じで地面の紙を破り捨てました。
どんな人々が組織した集会かまだよく呑み込んでいなかった私は、これはたいへんなことになる、バグダード云々と書いた人は袋叩きに会うのでは、と不安になりました。しかし、それは取り越し苦労でした。「お前はアメリカ人か」と罵られた男性は黙ったままでしたが、他の人々が彼を庇うような動きにでました。一人の女性は「今日は黙祷して、平和を祈るために集まったのに」と言って突然泣き出しました。そういう雰囲気の中で、紙を破り捨てた男性のほうが、多勢に無勢と思ったのか、その場から立ち去りました。そして、どこからか静かな歌声(Amazing Grace)が広がり、騒ぎは収まりました。
ユニオン・スクエアのあちこちには、Unite For World Peace Now!というスローガンに混じって、
Email President Bush
Say "No" to Retaliation & "Yes" to Pease.
というボードや、
No Retaliation No War
Email: President@whitehouse.gov.
というボードが貼られていました。これはいうまでもなく、報復を止めろ、戦争を止めろと書いて大統領にメールをしようという呼びかけです。ニューヨークは報復論一辺倒かと思っていましたが、小さいながらもこういう動きもあることを知りました。テレビカメラも来ており、深夜のテレビでもあちこちであった同じような集まりを写していました。これには当然反発もあり、集会でもスローガンに食ってかかる人々がいて、口論になっていました。
<追記>私は9月15日にニューヨークを後にしましたが、Eメールや郵便で寄せられる現地からの通信は、私が見たものが9月12日だけのことでなく、その後しだいに大きくなってきていることを物語っています。その一つは、友人から転送されてきた、ニュージャージー州在住の作家、冷泉彰彦氏の通信です。彼は9月24日のユニオン・スクエアの光景をこう述べています。
「24日の月曜日、私は事件後初めてNYのダウンタウンに足を踏み入れました。14日の一斉追悼日以来、花束とロウソクと詩が絶えることのない14丁目のユニオン・スクエアは、文字通り"unite"という思想の聖地と化していました。 うずたかく積まれた花束は、傷んだものは市の職員によって除かれながらも、次々に新しい献花がされ、昼であるにも関わらず様々な大きさのロウソクが灯されていました。その間に、行方不明者をさがすビラや、反戦のメッセージ、団結のメッセージ、聖書の格言のビラ、犠牲者への思いを綴ったメモなどが整然と貼られ、大勢の人がゆっくりと立ち止まりながら、そうした言葉を静かに読んでいました」。
そのほか、報復戦争反対の声では、オノ・ヨーコさんがニューヨーク・タイムスに「イマジン」の全面広告(9月25日)を出して注目されました。また、下院議員のバーバラ・リーさんが、アメリカ議会でのテロ報復の武力行使決議にただ一人反対(9月14日)したのはよく知られています。その後、彼女の地元のバークレー市議会は彼女の行動を讃えるとともに、アフガン空爆非難決議(10月16日)を行いました。
ニューヨークからの最後のメール(9月14日)
9月11日から14日の間は、事情の急変に振り回されました。しかし、結果はcancelの意味のドタキャンではなく、canのほうのドタキャンですべて結果オラーイです。
13日に別送品の発送をすませ、レンタル家具のピックアップに来てもらう予定で手はずを整えていたところ、12日の午後、国際宅急便のヤマト運輸から留守電があり、「交通がストップしているので明日は別送品の受け取り引き取りに行けません」、という連絡が入る。レンタル家具会社からも同様の連絡がある。ところが13日朝になって、両社から前後して「交通に支障がなくなったのでこれから取りに行きます」という電話がかかる。別送品は購入した本などが6箱。レンタル家具はベッド、机、テーブル、本立て、食器、電気器具などが小型トラック一台分。受け渡しがいっときに重なったので大慌てをする。それでもなんとか終えて、部屋を空っぽにし掃除をして、明け渡す。
13日の夕刻、マンハッタンのホテルに移る。客は11日のテロによる空港閉鎖で足止めをくっている人がほとんど。日本人旅行者も多い。この日の朝、空港がオープンしたと一瞬喜んでいると、テロリストの嫌疑のある数人がJFKとラガーディアで逮捕されて、再びただちに閉鎖になってがっくり。これだと予定のカナダ行きをあきらめて、しばらくニューヨークにいるしかないな、と腹をくくる。
14日は、最後に残っていたアパートのデポジット(敷金)の返金交渉に行く。形式上1年の契約であったので、半年では返してもらえないかもしれないと思っていたところ、「後の入居者が決まったので」という理由で返ってくることになって一安心。タクシーの中で空港がオープンしたというニュースを聞いて、リコンファームのために午後3時過ぎに、グランドセントラル駅近くにある航空会社の共同オフィスに行く。
どの航空会社の窓口もリコンファームやフライトの変更のために駆けつけた客で長蛇の列。NW社の窓口で私がもらった順番はD63。そのとき実際に呼ばれていたのは6番。これでは夜までかかると思っていたら、日本人の学生(男女)が「英語が聞き取れないのにどうしよう」と不安そうに話している。見ると彼らは私より40番も早い順になっている。そこで一計を案じ、私が手伝いましょうか、というと大喜び。私の下手な英語でも難なく通じて、二人の学生は問題なくリコンファーム完了。そこで私も、同じグループですという顔をして、私たち夫婦のチケットを示すとこれまたすんなりOK。後の人には申し訳ないが、時間の節約では大成功。急場では人間は悪者になることもあると、自分に言い訳する。
14日の街は国民追悼の日でひっそりしていました。ホテルの窓から下に見える消防署には、ワールド・トレード・センターの救出活動で犠牲になった消防士のためにたくさんの花束(献花)がおかれていました。近くのセント・パトリック・チャーチでは、正午から追悼式が行われ、大勢の人が参列していました。
手に葉書大やハンカチ大の小さな星条旗をもって、参列している人もいました。タクシー、商用車、マイカーにも、小さい星条旗をつけて走っているのが目にとまりました。アラブ系やアジア系の新移民が「私もアメリカ人として、みんなと心を一つにしています」ということを示すために星条旗を付けているという話も聞きました。みんなが買うので星条旗は売り切れになったとか。航空会社の共同オフィスでは、観光客が買うような星条旗と自由の女神をプリントしたポスターを、一般の人々に無料で配っていました。
夜、あちこちのホテルの前では、たくさんの蝋燭が灯され、人々も手に手にキャンドルをもって、何処へか向かっていました。そういう静かな静かなニューヨークでした。
明日は荷物チェックの厳しさを考慮して、朝5時にホテルを出てタクシーで空港まで行く予定。行ったらまた閉鎖されたなどということがないように祈っています。何事もなければ、15日から22日までカナダのビクトリアにいて、当初の旅程通り23日に帰国します。
予定通りニューヨークを出る(9月15日)
空港が閉鎖されしばらくニューヨークにとどまるのもやむを得ないとあきらめていたところが、14日の午後になって空港が再開し、予定通り、15日朝のノースウェスト便に乗り込むことができました。そして、ミネアポリス、バンクーバーを経て、当初より帰りに立ち寄ることにしていたビクトリアにたどりつくことができました。
空港はものものしい警戒で、私たち夫婦は幸運にも免れたものの、多数の乗客がラッゲージの中身を子細に調べられ、いろいろと質問を受けていました。私たちは健康上の理由でビジネスクラスだったので、短時間でチェックインをすますことが出来ましたが、エコノミークラスは長蛇の牛歩の列でした。しかし、飛行機の中は、操縦室のドアが空き、離陸直前まで客席からコクピットの中が覗けるなど、ちぐはぐなところもありました。
ニューヨークの上空から見えたマンハッタンはまだ煙っていました。乗客の中には昨日まで足止めを食って、チケットの変更をしてようやく帰れるようになった日本人も多数いました。飛行機が無事にミネアポリスに着陸すると、乗客から期せずして(いつになく大きな)拍手がありました。私だけでなくみんな無事脱出でき、長い緊張から解かれてほっとしたというのが偽らざる心境だったのでしょう。
昨日のニューヨークの新聞には、Retaliation(報復)とPatriotism (愛国心)という言葉が踊っていました。CNNは「アメリカの新しい戦争」というタイトルのもとに、議会が報復のための武力行を承認したことなどを伝えています。こういう流れからも、アメリカが報復戦争に走ることは必定です。
経済に関連しては、昨日までの「IT不況」に代えて「テロ不況」という言葉が使われています。この月曜日から証券市場は再開することになっていますが、証券市場にとどまらず経済全般がクラッシュする可能性が大です。アメリカはかつてこれほどのマグニチュードのアタックは経験したことがなく、直接の物的、人的損失が甚大であるにとどまらず、その心理的衝撃が今後の消費や投資に与える影響ははかりしれません。報復戦争に入れば、軍需は拡大するでしょうが、新たなテロにそなえた警戒と統制の強化、さらにはそれがもたらす国際的な交通と物流の障害は、やはり経済の縮小に結果するでしょう。
4月にこちらに来て半年、危険と言われてきたニューヨークが安全な街であることに新鮮な驚きを覚えていましたが、この事件によって、世界の政治経済のあらゆる問題に利害関係をもち、あらゆる地域の紛争に軍事介入をしてきた覇権国家の中枢都市はけっして安全ではありえないことを思い知りました。
ビクトリアでも平和集会(9月20日)
日本への帰りにカナダのビクトリアに立ち寄りました。花のきれいなこの街にもアメリカの暗雲が影を落とし、海岸ではファイターが旋回し、新聞には「われわれは戦いの準備をしなければならない」という見出しが踊っていました。しかし、その一方で、戦争反対の声も高まっていて、9月19日には市役所広場で平和集会が開かれ、報復戦争反対の市中デモが行われました。私はビクトリア大学を訪れて、集会とデモのことを知りました。400人余りが参加した集会では、報復戦争に反対し、平和的解決を求めるいろんなスローガンが掲げられていました。
Islam is not the enemy.
War is not the answer.
Work for global peace and justice.
Violence is not the solution. Put life in the centre.
Stop Bush's war before it starts.
Choose justice not revenge.
Militarism must stop.
Don't kill innocent Afghan.
We must live together.
なかでも印象に残ったのは、「暴力は解決ではない。命こそ第一にせよ」(Violence is not the solution. Put life in the centre)と書かれた旗でした。
スピーチでも、国際法にもとづいて、テロ犯罪の容疑者と協力者を裁判にかけ処罰するべきで、戦争はテロに対する答えではないということが強調されていました。憎悪と報復の悪循環を絶つためにも、こうした流れがもっともっと大きくなってほしいものです。
今回のニューヨーク滞在では、成田麗徳さんと LI HONG CHENG さんにたいへんお世話になりました。ここに記してお礼を申し上げます。
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