さ さ な き 通 信
冬、庭や公園の茂みからよくチッチッという音が聞こえてきます。あれはウグイスがささなきをしているのです。『広辞苑』では、ささなき【小鳴き・笹鳴き】を「冬に、鶯の鳴き声がまだ調わず舌鼓を打つように鳴くこと」と説明しています。そこで調子外れの私の拙い随想を「ささなき通信」と題して載せていくことにしました。
2006年2月以降のポストはブログ随想「ささなき通信」(自然のカテゴリ)に移しました。
2005年11月30日 「みのもんたさん、働きすぎですよ」
労働時間と過重労働に関するここ数年の研究をまとめて、『働きすぎの時代』(岩波書店、2005年8月)という新書を書いた。憂うべきか喜ぶべきか、これが意外に多くの読者を得て発売3ヶ月で5刷を重ねることができた。
反響が目に見えるという点で顕著なのは、インターネットである。この本が出る前に、タイトルにしようと思って「働きすぎの時代」という言葉を Google で検索した。そのときには、たしか用例は80件くらいしかなかったように記憶している。同じ言葉を出版後に検索すると、日を追って件数が増え、最高時の10月末には23000件を超すまでになった。
ところが不思議なことに、その後は減り始め、11月20日には19000件あまりになり、今日現在(11月30日)では16800件まで落ちている。1万件を超すといっても、実際に Google で追跡できるのは998件目までである。これらの追跡可能な情報でも、同一サイトが何個も挙がっていて、重複分を除いた実際の件数ははるかに少ないものと思われる。件数には含まれていても追跡不能な情報は、ほとんどが万華鏡の反射のようなものか、小さな塵芥のようなものであろう。
ネットサーフィンをしていて、たくさんのブログ(Blog)が読書日記で『働きすぎの時代』を書評あるいは紹介してくださっていることに驚かされた。1週間ほどまえに大阪の「職場の人権」研究会で報告をする直前に整理してみたら、ブログ以外のものも含め、ネット上の拙著の書評や紹介は、A4(40字×40行)で75ページに及び、件数にして100件を超えていた。
検索を続けるうちに、私のような情報音痴には「発見」といっていいような情報サイトにも出会った。「RSSを公開しているブログの、ブログ内キーワードでブログ同士を結び付る実験サイト」という触れ込みの Keyword という「ポータルサイト」がある。これによって、たとえば「働きすぎの時代」という言葉を入れて検索をすると、その言葉を含む該当ブログが瞬時に自動的に示される。そのなかには読書日記で拙著に触れたブログも当然含まれている。
もう一例は「どのような言葉がどのように語られたか」を示す“Kizasi Search Engine”である。 たとえば「働きすぎ」という言葉を入れると、この11月の4週の合計で出現頻度は110回と出る。「みのもんた」がNHKの私の嫌いな「紅白歌合戦」の司会をするという発表があった週には、「みのもんたさん、働きすぎですよ」、という使われ方をしていることが判る。用例のなかには少数ながら拙著の『働きすぎの時代』の「働きすぎ」も含まれている。試みに、「岩波書店」と入れると、11月は合計 589 回出現したと出てきた。
拙著では、今日の情報通信技術が仕事のスピードを速め、しかも量を増やし、働きすぎ・働かされすぎを助長していることを強調した。それは別としても、上述のようにネットの情報がポータルサイトのネットワークでユビキタスに繋がれているというのは、便利であると同時に、人びとが情報の鎖に絡み取られか渦に呑み込まれるという感じがして、何か恐ろしいことのように思えてくる。
こんなことを書くと、お前は何をぼやいているんだ。もともとインターネットとはそういうものではないか、それより何よりお前はこうしてネットで自ら情報をさらしているではないか、と言われそうである。
2005年10月2日 漱石の「現代日本の開化」論は現代競争社会論
拙著『働きすぎの時代』(岩波新書、2005年8月)の一読者から書店経由で読後感を綴った葉書が届いた。それには「私は2年半前に定年退職しましたが、職場が多忙化しつつあることを強く感じていました」とあり、夏目漱石が「否、開化が進めば進むほど競争がますます激しくなって、生活はいよいよ困難になるような気がする」(「現代日本の開化」)と言っていたことを実感しました、と述べられていた。
漱石の「現代日本の開化」というのは、彼が1911(明治44)年8月に和歌山で行った大阪朝日新聞社主催の講演である。『漱石文明論集』(岩波文庫)に納められているが、インターネット図書館の青空文庫)でも全文を読むことができる。
この講演が行われた当時の日本は、明治維新からまもなく半世紀になろうとしていた。日本が産業革命を経て資本主義国としての発展の基礎を確立し、日露戦争(1904年)から日韓併合(1910年)へと膨張主義を強め、漱石を懐疑的にさせたのも、この時期であった。
拙著では現代が「働きすぎの時代」であることを、「グローバル資本主義」「情報資本主義」「消費資本主義」「フリーター資本主義」という4つのキーワードで説明した。とくに「情報資本主義」と「消費資本主義」に関しては、労働を減らすはずの技術の発展が仕事量を増やしており、生活を豊かにするはずの消費の増大が働きすぎを助長している、というパラドックスが成り立つことを言いたかった。
実は漱石が先の開化(今でいえばグローバリゼーション)論の講演で語っていることの一つはこのことにほかならない。この点では彼は拙著で私が言わんとしたことを1世紀も前に慧眼にも見通していたと言うことができる。しばらく、彼の説くところを聞いてみよう。
漱石は定義というものは杓子定規なものになりがちであって、ちょうど汽車がゴーと馳けて来る一瞬の光景を写真にとっても、汽車なら見逃せない運動というものが出ていない以上は実際の汽車とはほど遠い、と注意を喚起する。そのうえで、「開化は人間活力の発現の経路である」という定義を与え、人間活力が時の流れに沿って開化を形づくっていくうちには、性質の異なった二種類の活動を認めることができるとして、次のように述べる。
その一つは「活力節約の行動」である。人間はできるだけ労働を少なくして、なるべくわずかな時間に多くの働きをしようと工夫する。その工夫が、積もり積もって汽車・汽船はもちろん、電信・電話・自動車になるが、これらは元をただせば、めんどうを避けたい横着心の発達した便法にすぎない。
もう一つは「活力消耗の趣向」である。電車や電話の設備があるにしろ、人は道楽心から好んで身体を使って疲労を求める。我々がわざわざ散歩をするとか、自分の好む刺戟に精神なり身体なりを消費するとかいう贅沢も、この活力消耗の部類に属している。今までは安いタバコで我慢していたのに、隣りの男がうまそうに香りのよい高いタバコをのんでいるとそっちがのみたくなるのも、これと同じ理屈である。
今日の開化の混乱は、こうした活力節約の行動と活力消耗の趣向から生じ来ったものである。そのことを漱石は「できるだけ労力を節約したいという願望から出てくる種々の発明とか器械力とかいう方面と、できるだけ気ままに勢力を費やしたいという娯楽の方面、これが経となり緯となり、千変万化錯綜して、現今のように混乱した開化という不可思議な現象ができるのであります」と述べている。
問題は、こうした開化が人びとの生活を楽にさせているか、それとも困難にさせているかにある。何千年という長い時間のいろんな発明や工夫から考えると、昔よりも生活が楽になっていなければならないはずである。けれども実際はそうではない。そこで漱石は言う。
「否、開化が進めば進むほど競争がますます劇(激)しくなって、生活はいよいよ困難になるような気がする。なるほど、以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化はかち得たに相違ない。しかしこの開化は、一般に、生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔らげられたというわけではありません」。
「このくらい労力を節減する器械が整った今日でも、また活力を自由に使い得る娯楽の道が備わった今日でも、生存の苦痛は存外切なもので、あるいは、非常という形容詞を冠らしてもしかるべき程度かもしれない。これほど労力を節減できる時代に生まれても、そのかたじけなさが頭にこたえなかったり、これほど娯楽の種類や範囲が拡大されても、全くそのありがたみがわからなかったりする以上は、苦痛の上に非常という字を付加してもよいかもしれません。これが開化の産んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります」。
漱石はここから、「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」という話に進む。そして「現代日本の開化は、皮相、上滑りの開化である」という議論につなげる。ただし、「それが悪いからおよしなさいと言うのではない。事実、やむを得ない、涙をのんで上滑りに滑っていかなければならない」と言い足すことも忘れていない。
「現代日本の開化」という論題からみれば、議論の中心はこの点、すなわち日本の開化の外発性や、そのために生じる種々の困難を説明することにある。しかし、ここではこの議論にはこれ以上立ち入らないでおこう。
だとしても、ここまでみてくれば、漱石が開化論の講演で言うパラドックスは、私が『働きすぎの時代』で言うパラドックスと根底において異ならないことがわかっていただけるものと思う。だとすれば、「開化と云うものがいかに進化しても、開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配」はむしろひどくなる、という漱石の洞察は、彼の現代日本論や開化論というより、むしろ現代資本主義論あるいはグローバル資本主義論として先見性を有している、と言わなければならない。
「競争その他からいらいらしなければならない心配」は、今日では強まるばかりで、大学の世界も例外ではない。漱石はこの講演の最後のほうで自分自身の経験に重ねて「大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱にかかりがちじゃないでしょうか」と述べているが、「競争」と「いらいら」のもたらすストレスの大きさにおいては、漱石の言は今日の日本の大学、否、大学に限らず今日の日本の多くの職場にいっそうよく当てはまるように思われる。
2005年8月8日 黒木瞳主演のテレビドラマ「二十四の瞳」に思う
壺井栄の小説「二十四の瞳」の舞台となった小豆島は、夏のお盆前後には必ず帰る私の「第二の故郷」である。
「二十四の瞳」の大石先生を囲む12人の生徒のなかに、私と同じ姓の森岡正という網元の息子が出てくる。彼は「やせてうもない」月夜のカニの謎で先生を困らせ、兵隊に行って下士官になるのだと言って先生を悲しませ、先生が足をくじき本校に移ることになったときには、「まいにちふねでむかえにいってやる」と言って先生を喜ばせた。こうした作中の森岡少年への愛着が「二十四の瞳」への私の想いをいっそう大きくしている。
この小説をもとに、1954年に木下恵介監督・脚本、高峰秀子主演の映画が作られた。当時、日本中が泣いたと言われたこの映画はあまりに有名で、私も小学生のときに学校の講堂で観て子どもながらに感動したように記憶している。
この映画は大人になってもテレビやビデオで再三観た。そのために「二十四の瞳」となると高峰秀子の演ずる大石先生のイメージがこびりついて離れない。1987年に朝間義隆監督、田中祐子主演で「二十四の瞳」がリメイクされた。こちらは、ロケ地となった小豆島の映画村(内海町田浦)でせわしなく観たせいもあって、渥美清のナレーションが流れていたことと、大石先生の夫(瀬戸内航路の機関士)役の武田鉄矢が善良すぎておかしかったことのほかは、ほとんど印象に残っていない。
「二十四の瞳」はしばしばテレビドラマにもなったようで、ネットで検索すると、1964年に香川京子(テレビ東京)、1967年に亀井光代(MBS)、1974年に杉田景子(NHK、全6回)、1976年にも杉田景子(第2部、NHK、全6回)、1979年に島かおり(TBS)、1980年に倍賞千恵子(フジテレビ・アニメ)がそれぞれ大石先生役をしている。テレビと縁が薄かったのか、これらはいずれもまったく観ていない。
去る8月2日の夜、日本テレビ制作の「終戦60年特別ドラマ」と銘打った黒木瞳主演の「二十四の瞳」(寺田敏雄脚本・大原誠演出)が放送された。「憲法を変えて戦争に行こう」という流れが強まっているなかで、戦争から子どもたちを守りきれなかった教師の心の痛みを描いた作品が再演される意義は大きい。
前評判につられて、黒木瞳の「二十四の瞳」を観たが、率直に言って感想は期待を裏切るものであった。高峰秀子の映画とは比べようもなく、二つの「二十四の瞳」は、片やテレビ、片や映画という違いを超えて、作り方がまったく違っている。
あるウェブサイトには、木下映画の「二十四の瞳」の撮影期間は1年半、うち小豆島での撮影に6か月を費やしたとある。それに比べて今回のテレビドラマの「二十四の瞳」の撮影期間は約1か月、うち島内での撮影は2週間足らずであったという。これでは演出家も役者も納得のいく仕事ができるはずがない。
子役の台詞にしても、下手と言うより、稽古不足が歴然としていた。加部小ツルの父を演じた小豆島出身の石倉三郎を除けば、大石先生役の黒木瞳をはじめ、どの役者も方言はまるでさまになっていなかった。しかし、原作では、舞台は必ずしも小豆島と言うわけではなく、「農村漁村の名がぜんぶあてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村」であってみれば、方言のことはたいしたことではないかもしれない。
せっかくの名作を台無しにしていると思ったのは、細部の手抜きであった。たとえば、子どもたちが花輪を作って頭に乗せて遊ぶシーンでは、その花がいかにも造花めいて、嘘が透けて見える感じがした。大石先生の上の息子の大吉が庭に育ったカボチャをひきちぎるシーンでは、地を這うツルに付くはずの実が竹格子に縄で吊され、葉っぱはアサガオかサツマイモにしか見えず、すっかり興ざめしてしまった。
嘘っぽさは役作りにもみられた。主役の黒木瞳にしても、クローズアップされた指の爪に薄い透明ピンクのマニキュアが塗られているのを見せられると、「あなたはどんな時代のドラマをやっているの」と言いたくなった。
興味がそがれたという点では、コマーシャルの罪も大きい。しばしば、ドラマの主役がコマーシャルに出てきて違和感を覚えることがある。このドラマでは、大石先生を演ずる黒木瞳が楽しく踊ったり、新幹線やB747の前を走ったりという、時代違いの場違いなコマーシャルがドラマをしばしば中断させ雰囲気をぶちこわしにした。民放では仕方がないといえばそれまでだが、スポンサーもテレビ局も広告会社も、視聴者の感情移入を大事にするなら、コマーシャルの作り方や入れ方をもう少し工夫してもよさそうなものだと思わずにはおられなかった。
最後に高峰秀子の映画「二十四の瞳」に戻れば、その冒頭に土庄町戸形崎の小学校の近くを小舟が通るシーンが出てくる。この戸形小学校も「二十四の瞳」の生徒たちが学んだような島の海辺の小学校の一つである。正確にいえば、この小学校は2005年の春、107年の歴史に幕を閉じた。同じ時に土庄町の大部小学校と大鐸小学校も廃校となった。これらの消えゆく小学校のことを想うにつけても「二十四の瞳」の伝えるものはきわめて重い。
注:壺井栄「二十四に瞳」は小豆島ドットコム 週刊ウェッブマガジン2002/07/10号〜2003/11/02号で読むことができる。
2004年11月26日 クラス会もといた家も村もなく
去る11月21日、母校の高校C組(1962年3月卒業)のクラス会が別府で開かれて駆けつけた。これまでに何度も開かれているが、私が参加したのは今回が2度目である。
C組は、大分県立大野高校に、農業科、農産製造科、家庭科のほかに唯一あった普通科クラスである。全員で36名(男子25名、女子11名)であったが、今は2人が亡くなって34名になっている。今回は約半数の16名(男子9名、女子7名)が集まった。
クラスの自慢はみんなの仲がいいことである。卒業して42年経った今も仲がいいのは、仕事中の事故で障害者になった同級生の木部毅君が、車いすマラソンで活躍していることによるところが大きい。毎年、彼は「大分国際車いすマラソン大会」に出場する。彼を応援するために、恩師の数学の先生とともに大分市在住の同級生が集まる。それがクラス会さながらに旧交を温める場となっているのである。
彼は車いすマラソン以外の競技もやる。今年は埼玉県で開かれた「彩の国まごころ大会」(第4回全国障害者スポーツ大会)のアキュラシー(スローの正確さを競うゲーム)で金メダルを獲得した。クラス会でその金メダルが披露されたことはいうまでもない。
クラス会に集まった人たちは、1943年か44年生まれで、昨年から今年にかけて還暦を迎え、長年勤めてきた人たちも今はほとんど第一線を退いている。たとえば、町役場を辞めて、町の商工会の勤めに出ている人も、看護師を辞めて県の医療苦情相談の電話対応をしている人も、長年の拘束的な勤務からは解放されて、時間の自由が利くようになっている。みんな歳が行ったうえに、時間があるだけに、旧友と語り合うことをこれまで以上に楽しみにしているようである。
今の若い人たちの間では共働きが多数派になっている。しかし、1960年代の初めに高校を出た私たちの世代では、女性は結婚や退職を機に家庭に入ることが今より多かった。にもかかわらず、集まった7名の女性のうち4名は定年か定年近くまでフルタイムで働き続けたという。公務員でも女性が勤め続けることが難しいこの国で、永年勤続した彼女たちに拍手を贈りたい。
他方、悲しいことに、クラスの男子の一人が過労死していた。彼が亡くなったことは前に聞いてはいたが、今度クラス会に出て、1991年に会社で倒れ、最近ようやく過労死として労災認定されたことを知らされた。わずか36人の同級生のなかに過労死で命を奪われた人がいる。この事実に直面し、経済学から過労死を研究してきた者として、彼の奥さんや弁護士に会って、ぜひ詳しく話を聞かなければと思った。
ほかに淋しい思いをしたことがいくつかある。私たちが卒業した大野高校は町の過疎化で定員割れを起こし、とうとう2年前に74年の歴史に幕を閉じた。そればかりか、大野町、三重町、緒方町、朝地町、犬飼町、清川村、千歳村の5町2村の合併協定調印式がクラス会の前日にあり、来年3月31日に「豊後大野市」が誕生する予定であることを、宿の「大分合同新聞」で読んだ。くわえて、級友からは、私たちが通った中部、東部、西部、南部、北部の5小学校が一つに統合されて、来年4月1日より、「大野小学校」が誕生すると聞いた。
故郷喪失は現代人の宿命だといえばそれまでだが、もといた家が道路の拡幅でなくなった私にとって、毎日通った高校が消え、小学校が消え、そしてついに町まで消えるのはあまりに淋しい。集まった友達の誰もが、5町2村の合併で町は、寂びれるばかりで、よくなることはないと言う。それでも進む「平成の大合併」とはいったい何なのだろうか。私には過疎化を速め、集落の崩壊を速める世紀の愚行としか思えない。
もちろん、楽しい思い出話もいろいろと出た。高校時代に歌うのを聴いたことがなかったK君やS君が抜群のカラオケ名人であることも知った。住む場所や仕事は違っても、同時代を体験してきた旧友ならではの共感と郷愁に深く感じるところが多かったクラス会であった。
2004年8月18日 きれいさっぱり仕事を忘れて島の盆
お盆のころに妻の郷里である小豆島の長浜に帰るようになってもう40年近くになる。1週間ほどの休暇にすぎないが、毎年、これを読もう、あれを書こうと思って何冊も本を持って帰る。近年はノートパソコンも欠かしたことがない。
家族の者には何も帰省してまで仕事をすることはないと言われる。私自身もそう思う。けれど、台風や長雨で家に閉じ込められるかもしれない。そんなときに読むものがなければ困る。それよりなにより、急ぎの原稿を少しでも書いておきたい。そう考えてあれこれ材料を持って帰るのである。しかし、一度として帰省中にまともに読書や書き物をしたことがない。今年は特別な事情があっていつも以上にたくさんの材料を車に積んで持ち帰ったが、結局は例年と同じように海釣りに明け暮れた。
島の家は潮騒が聞こえるほど海に近い。朝起きると浜に出てまず潮を見る。大きな港や有名な釣り場の潮時表なら新聞やインターネットで調べれば判る。とはいえ、場所が違えば時間も違う。それもあって潮の動きは自分の目で確かめないと落ち着かない。1日の間に干潮と満潮がほぼ2回繰り返す。干潮(満潮)から次の干潮(満潮)までの時間はおよそ12時間25分である。とすれば1日単位では約50分のズレがあることになる。しかし、ズレは日によって30分前後のときもあれば、60分を超えるときもある。私にはこのことにどんな規則性があるのか分からない。だからやはり直接確かめる必要がある。
潮を見てたとえば午後2時ごろが干潮だなとなると、釣りは朝のうちと夕食後がよい。それも大潮で満ち上がってくる潮時ならいうことなしである。餌のゴカイはその昔は近くの浜で手にマメができ、それがタコになるほどにしつこく掘っていた。しかし、かなり前から手っ取り早く釣具店で買うようになった。目指す獲物はハゼ(マハゼ)、キス、ベラ、メバル、ガシラ、アブラメ、チンチン(チヌの子)、小っ葉グレ、小っ葉ガレイなどの小物である。
大物は釣れる確率が低い。私の釣りは家族のための食料調達を兼ねているので、釣れなければ困る。そこでいきおい小物狙い、それももっとも確実性が高いハゼ狙いとなる。秋風が立ちはじめると男女の仲は離れていくが、ハゼは浅瀬や船溜まりに寄ってくる。良型が数釣れるようになるのは9月の中旬ごろからであるとしても、お盆のころともなると20cmを超す良型と10cmに満たない当歳ものが入り混ざってけっこう釣れはじめる。釣り方はいたって簡単で、針にゴカイを付けてチョンチョンと動かしているとブルブルと引く。少し待って引っかけてゆっくり上げる。今年も童心に返って、このセオリーどおりのハゼ釣りを堪能した。
ここ数年はほかにママカリ(サッパ)釣りを楽しませてもらっている。もらうというのは、浜から数キロ沖の沈み磯で釣るために船に乗せてもらわなければならないからである。家の側の大工さんに誘われて連れて行ってもらったその釣り場には、今年も対岸の牛窓方面から10艘を超す船がママカリを目当てに来ていた。仕掛けはコアジ釣り用の5本針のサビキである。多いときは一度に5匹掛かるときもあるが、口が柔らかいために、釣り上げて取り込む前にしばしば海に落ちてしまう。今年、一度に釣れた最高は4匹であった。2時間ほどで私1人で40匹余り上げた。大工さんの釣果はずっと多かった。それでも「今日は不漁だった」とのことであった。
ママカリは15cmほどのニシン科の小魚で、小骨が多く、釣ったあとの処理が面倒である。簡単にいえば、ウロコを取り、頭を落とし、胸を刎ね、腹わたを出す。調理法としては、生のまま塩をして酢漬けにする、焼いて焦げ目をつけ酢醤油に浸す、唐揚げにするなどがポピュラーであろう。隣家からママを借りて食べたくなるほどうまいので「ママカリ」というらしいが、それほどおいしいとは思わない。標準名は「サッパ」というとおり、私はまことにサッパリした味が気に入っている。
こういうわけで今年も読書や原稿書きはさっぱりの帰省であった。
2004年1月22日 大雪で立往生の列車に8時間缶詰
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。『雪国』の越後ではなく、駒子のような女性が待っている夜でもなかったが、北陸に講演旅行に行って、今度ばかりはここは雪国だと実感した。
昨年の11月に、金沢星陵大学の吉川顕麿先生から依頼を受けて、同大学経済学会の講演会の講師をお引き受けした。1月22日開催予定の講演会の1週間ほど前になって、「22日は大雪で交通に支障が生ずるということのないように祈っています」とメールした。
当日の朝、吉川先生から「金沢は雪なので早めに来てください」という電話をいただいた。それで指定席を取っていた京都11時10分発予定のサンダーバード15号を一便早めて、10時9分発予定のサンダーバード11号に乗ろうと家を出た。この冬一番の冷え込みではあったが、大阪は青空が広がり雪の気配などどこにもなかった。
京都駅に着くと、10時9分の便は雪のため運休になっていた。やむなく10時39分発の雷鳥13号の自由席に乗る。湖西線から見る琵琶湖は雲のない空を映してどこまでも青く、比良山系を別にすれば、今津にも雪はなかった。
景色が一変したのは滋賀と福井を隔てる深坂トンネルを抜けて敦賀に出たあたりからである。列車は降りしきる雪を窓に受けながらもほとんど定刻通りに走る。加賀駅を出たころから少し遅れが出始めたが、それでもせいぜい10分遅れの12時50分頃に小松駅に止まった。その直前に吉川先生から携帯電話があり、「いま小松ですから、もうすぐ着きます」と返事した。
さきの『雪国』の冒頭は「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」と続く。私の乗った雷鳥は、小松駅に止まったあと、しばらくして、「前方の信号が赤になっていて発車できません」と車内放送があったあと、まったく動かなくなった。そのうち、前方の踏み切りで雪のため4トントラックが脱輪してレッカー車を呼んでいるところだということが判った。
講演会の開会時間の2時30分が近づいてくるのに、待っても待っても動き出す気配はない。吉川先生も気遣って、金沢駅に問い合わせ、踏切事故を起こしたトラックは2両だと教えてくれる。列車を諦めて、タクシーを拾おうと改札を出たが、タクシーは雪に埋もれて動きそうもない。そこでやむをえずまた列車にもどる。
午後2時半を過ぎても動く気配がなく、講演会は中止のやむなきにいたる。その後、何度目かの車内放送があり、1両のトラックは撤去されたが、もう1両残っていることが知らされる。それもようやく撤去されて、いよいよ動くかと思っていると、「これからラッセル車で除雪するので、それが終わるまで発車できない」と聞かされる。
大雪で立往生した列車に缶詰になって5時間ほど経ったころ、下りが動きはじめて、車内放送の誘導で大阪・京都から来た客の何人かが下りのサンダーバードに乗ってUターンしていった。私は講演会の主催校の先生方との夜の懇親会がセットされていたこともあり、行くしかないと待ち続ける。
結局、列車が小松駅を出たのは懇親会の定刻を大幅に過ぎた午後7時半頃だった。「ようやく出ました」と吉川先生に電話したあとがまたいけなかった。先行列車のしらさぎが車体の凍結で動けなくなり、その乗客がその前にいた雷鳥9号だかに乗り移るまで待ってほしいとのこと。それも終わって再び動き出し、いよいよゴールと思いきや、金沢駅のすぐ手前まで来て、「ホームが満線なので入れません」とまたまた待たされる。
こうやってようやく金沢駅にたどり着いたのは夜9時近かった。普通なら20分もかからない小松から金沢までを、8時間も費やして移動したことになる。駅は特急券の払い戻しを求める客でごった返していたが、私は素通りしてホテルの懇親会場に急いだ。遅れに遅れて着いたにもかかわらず、そこには金沢星陵大の先生方がまだお待ちいただいていて感激した。天候を考えて前泊していれば学生のみなさんにも先生方にもご迷惑をおかけせずにすんだと思うとほんとうに申し訳ない。
思うに、大雪で2両のトラック事故が重なったとはいえ、冬は雪害に備えているはずの北国で、復旧に8時間も要するというのは、JR西日本の事故復旧の態勢に何か問題があるのではなかろうか。車内のアナウンスも少ないうえにちぐはぐで、乗客を落ち着かせるよりも不安にさせるものであった。
今日、1月23日朝、金沢のホテルで見た「北国新聞」は一面トップで「金沢大雪49センチ」「強風雪 交通網寸断」と報じていた。社会面には乗客約200人が「列車ホテルに一泊」とあった。鉄道は今朝はほぼ平常に戻っていたが、ホテルを出てから米原で新幹線に乗り換えるまで、雪は今日も降り続いていた。
2004年1月3日 年賀状に想う
今年の賀状は時代を憂えあるいは怒るものが目立ちました。兄のいる佐世保では昨秋、自衛隊が迷彩服を着て軍艦マーチを奏でて市中を行進したそうです。いまや軍靴の足音が忍び寄るというより、間近に聞こえるようになりました。
3年前、入院中のすさびに、田辺聖子の『道頓堀の雨に別れて以来なり―川柳作家・岸本水府とその時代』上・中・下(中公文庫、2000年)を読みました。川柳も水府も知りませんでしたが、昭和史のいい勉強になりました。水府が次の句を詠んだのは、日本が自作自演で「満州事変」(1931、昭和6年)から「上海事変」(1932、昭和7年)へと突っ走るようになったころのことです。
旗立てることが日本に多くなり 岸本水府
南京事件の起きた1937年(昭和12)には鶴彬(つるあきら)が、またノモンハン事件があった1939年(昭和14)には渡辺白泉がこう詠んでいます。
手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴彬
戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡辺白泉
日中戦争は太平洋戦争へと拡大していきました。そして1945年(昭和20年)の敗戦に至り、青竜刀(せいりゅうとう)は、田辺聖子が「痛哭の一句」と紹介した句で広島の核の惨状を次のように詠みました。
進化とは地球を灰にすることか 青竜刀
平和は1日してなることはありませんが、戦争は一瞬に始まることがあります。あの9.11直後、ニューヨークのツインタワー跡地は「グラウンドゼロ」(爆心地)、ユニオンスクエアからマンハッタンの南一帯は「ウォーゾーン」(交戦地域) と呼ばれました。街には一斉に大小無数の星条旗が立つようになりました。アメリカはあの日から待ってましたとばかり戦争体制に突入したのです。
日本もアフガニスタンからイラクへ、ひたすらアメリカの後に従っています。戦争を煽る人物が首都の知事であるこの国で、戦争を止める力がどれほどあるのでしょうか。あまりあてにはできませんが、頼れるものがあるとすれば、それは世論の高まりだけです。
私は剣花坊ほど楽観してはいませんが、せめて鶴彬の希望を信じたいと思います。
黎明の大気の中にひらく花 剣花坊
暁を抱いて闇にいる蕾 鶴彬