単身遊学―イギリス、そして中国


1985年4月から86年2月まで、私は、イギリスの London School of Economics に遊学した。帰りに中国に立ち寄る予定であったが、健康上の理由で出来なかった。そのときの約束を果たすために、1988年5月22日から6月4日まで上海と北京に行った。その後、当時の遊学の想い出を、よどがわ市民生協が出していた『プロシューム』という生活文化雑誌の1990年5月号(12)から12月号(20)に8回にわたって寄稿した。以下はそのシリーズエッセイから転載したものである。


第1回 チェルシーの出会い

水仙が黄金色にきらめくロンドン。街路樹はまだ冬景色の早春。チエルシーに留学生活の居を定めたばかりの私は、道をたずねたことがきっかけで、痩身で背の高い一人暮しのイギリス人女性と知り合った。
 「来週の月曜から語学学校に行くことになっています」
 「英語だったら私が教えてあげてもいいわ。時間があるなら今日は近くの美術館に行きましょう」

私はとまどいつつも誘われるままビクトリア・アンド・アルパート・ミュージアムに出かけた。彼女は有名な装飾品や絵画を前に、自分は大学で英文学を勉強し、スペインや南米で英語の教師をしているうちに婚期を逸し、中年を過ぎた今も独り身でいるという話をした。

それから二人の間には彼女のいう「コミュニケーション」が始まった。彼女は私の英語を優しく直し、私が口ごもっていると、すぐに思いを察して言葉をくれた。しかし、彼女には何か満たされないものがあったのか、ある日、一度はさよならとおやすみを言ったのに、もう少し話をしたいので宿まで来てほしいと言ってきかない。彼女の芝居じみた態度に同情半分、好奇心半分、私は意を決してついて行った。そこは安ホテルで狭い部屋には浴室もなく、私が一つきりの椅子に座ると彼女はベッドに掛けるしかなかった。

私と二言、三言交わしているうちに、彼女は急に捜し物を始め、大切なネックレスがないと騒ぎだした。彼女はこの部屋に出入りする黒人のメイドが盗ったに違いないと言い張って、階下の受付の男性と口論を始めた。私は居たたまれずに、ホテルをとびだし、宿に帰って彼女にもう会いたくないと手紙を書いた。何日かして、彼女から私を口汚く罵った返事が来た。

それから二週間も過ぎただろうか。ある日曜日、私はドアのノックの音で目を覚ました。出てみるとあの女ではないか。彼女は教会の帰りに立ち寄ったといいわけをする。彼女のしおらしさに負けて、その日、私たちは昼食をともにした。そして、私の宿にはもう来ないということを条件に、次の週、時間のとれる平日に動物園に行くと約束した。

ところが、彼女はその週末、またも私の宿にやってきた。ロンリイな彼女を拒絶するには勇気がいったが、彼女を受け入れる勇気もなかった私は、宿の前の道路に出て怒鳴った。

 「なんで来たんだ。宿に来たらもう会わないと約束しただろう」
 彼女はプラタナスの若葉の下を走り去りながら叫んだ。
 「会うもんですか。もうあなたを邪魔する人は誰もいないわ」
 留学中にしたためた妻への手紙にはこの話だけは書いていない。



第2回 サンミッシェル通りの別れ

パリヘの小旅行を思い立ったのは九月はじめだった。ロンドンの旅行社で、パリはファッションショーがあって宿はとりにくい、といわれながら、週末の格安切符につられて夜の便で飛んだ。シヤルル・ドゴール空港に降りて、午後一〇時半すぎにパリの北駅に着いたが、案の定どのホテルもコンプレ(満室)。さがしあぐねて、サン・ジエルマン通りまでタクシーに乗る。閉店まぎわの日本料理店の店員にホテルをいくつか教えてもらうが、やはりコンプレ。

夜明しを決め込んで入ったカフェでは、楽士がアコーデオンやギターでシャンソンやポップスを歌っていた。朝まで語り明かすのか、動こうともしない恋人たちに見とれていると、わたしの斜め向いに五〇年配のふくよかな感じの日本女性が座っていることに気づいた。もう午前四時をすぎていた。本を読む彼女にわたしのほうから近寄って声をかける。聞けば未が出張中で、土曜の深夜映画に面白いのがあって、一番電車が動くのを待っているという。

「長居しすぎたわ、河岸をかえましょう」という彼女のことばで、ノートルダム寺院がすぐ横にみえるサン・ミッシェル通りのカフェに移った。フランス国籍のドイツ人と結婚し、三人の娘を育て上げ、数年前からはフランス人を相手に日本語を教えているという彼女からは、フランス人の気質や、フランスの学校教育や、フランスから見た日本文化について多くの興味深い話を聞いた。

話に夢中になっているうちに、気がつけば六時。「もう電車が動きだしてますよ」と立つ。が、わきに置いたはずの旅行鞄がない。それには現金、パスポート、カメラ、着替えなどが入っていた。彼女が店員に尋ねてくれたが、どこにも見あたらない。「前のカフェに忘れたんじゃないの」というので、そんなはずはと思いつつ一緒に引き返してみたが、やはりない。私が「これ以上ご迷惑はかけられません。パリに友人がいるのでなんとかなります」というと、彼女は私に警察の場所を丁寧に教え、人影のないメトロの階段に吸い込まれるように消えていった。

帰国して留学体験を持つ同僚にこの話をすると、「その女には連れがいたに違いない、そいつにやられたんだ」という。彼女の書き留めたパリの住所はあるが、私は確かめなかった。彼女にだまされたと思いたくなかったし、たとえだまされたとしても楽しい思い出だったのだから。

パスポートを盗まれて再発行を待つあいだロワールの古城を巡ってきた私は、オペラ座通りのモリエール横町の安ホテルで妻に長い手択を書いた。五年後のいま、すべてを手に取るように思い出すのはこの手紙のおかげである。



第3回 ヒースローの出迎えと別れ

混雑するヒースロー空港の到着ロビー。待つ人が見えるや走り寄ってあつい抱擁と口づけを交わす幾組もの男女を見ながら考える。私も妻の姿が見えたら、手を握ろうか、それとも勇気を出して抱きしめてやろうか。そう思い迷う間に、無事入国手続きを済ませたらしく、彼女が向こうから歩いてくる。が、そのとき私にできたのは、手をあげて合図し、近寄って旅行鞄を押すのを替わってやるということぐらいだった。

妻とは四カ月ぶりに会った。彼女は小学校に勤めている。そのうえ家族が多いので、家を長く留守にすることができない。このときも夏休みに一〇日余りの有給休暇をとって、留守を母にあずけて、私に会いに来たところだった。

私が単身赴任を余儀なくされたのはわが家の家族事情にもよる。しかし、わが家だけでなく、わが国では、共働きで夫か妻が外国出張になる場合、妻か夫が仕事をやめない限り、つれあいと赴任地で一緒に暮らすことはでさない。私と同じ年にロンドンに留学していた京都大学のある先生は、奥さんが高校の英語教師で、彼女の語学研修の目的もあって、家族でロンドン暮らしをした。しかしこの場合は、彼女の英語研修が認められたからではなく、折しも彼女が彼の留学直後に第二子を出産し、その育児休暇を英語研修のために活用できたからである。

英語教師が英語研修のための無給休暇さえとれない国とは違って、ヨーロッパでは、たとえば、イギリスに他の大陸諸国から三カ月英語の勉強にくるという場合も、彼や披女は職を失う心配はなく、むしろ帰国後職場にもどれば昇給さえ待っている。これはなにも外国での語学研修に限ったことではない。国内での技術習得や資格取得の場合にも同様に研修休暇が認められている。

私たちはあわただしい旅の先々でホリデーを楽しむ夫婦に出会った。向こうの人びとは実にゆったりしている。スイスのユングフラウの麓のインターラーケンという湖の船上では、初老にさしかかった夫婦と親しく話す機会をえた。私たちはわずか二泊したにすぎないが、イギリスからきたこの夫婦はすでに二週間も湖畔の宿にいて、もう一過間そこにいるのだという。これは平均年間一カ月、一カ所に二週間以上という長期滞在型ホリデーが一般化しているヨーロッパならではのことである。

二人だけの初めてのホリデーは夏の夜の夢のように終わった。かの地で知らぬ問に点眼されてなおさめきらないでいた惚れ薬のせいだろうか、空港で別れるときには、あちらの人びとのように人混みのなかで抱き合うことはでさなかったけれど、そっと手を握ることはできた。



第4回 ハイドパークの鳩

ロンドンのチェルシーで留学生活を始めて半年後の一〇月、私は都心から北に地下鉄で二〇分足らずのゴールターズグリーンに引越した。 それからほどなく、街のあちこちに「Human Rece or Nuclear Race 人類か核戦争か−10・26(土)ハイドパーク一周行進」と大書したポスターが目につくようになった。

また土曜日には、CNDという核廃絶をめざす平和団体の地域支部が駅の近くに露店を出して、バッジやパンフレットを売りながら、平和行進行への参加をよびかけていた。外国人も大歓迎とのことであった。

二六日の朝、駅に行くと、すでに子どもを含む老若男女十数人がピクニック気分で集まっていた。地下鉄を乗り継いで私たちがハイドパークに到着したときには、終結地の広場はもう人の海であった。参加者はグループ毎にいろんな絵模様や地域名を入れた手製の旗をもって集まってくる。旗はCNDのマークに鳩を配した図柄が多い。私が鳩のことをビジョン(pigeon)というと、一緒に行進した黒人青年が「平和のシンボルを指すときダブ(dove)というんです」と教えてくれた。

行進は正午すぎに動き出し、途中で少し寄り道をしてアメリカ大使館とソビエト大使館の前で抗議行動をしながら、ハイドパークとそれに続くケンジントンガーデンを一周した。どちらも広い広い公園で、解散点に戻ったのは四時近くだったから一〇キロは優にあっただろう。弁当を用意するのを忘れた私はサンドイッチをもらって畑張りながら歩いたが、なかには列から外れてパブでビールをひっかけてくる人もいた。コースに当たる道々ではプロやアマの音楽家たちが思い思いに歌い奏でていた。そんな陽気な行進にも厳粛な場面があって、途中五分ずつ、午後一時からは一斉に道路に座り込んで核保有国に抗議し、二時からは路上に死んだように寝ころんで核戦争の恐ろしさを訴え、三時には全員が黙祷を捧げて被爆者の冥福を祈った。

夕方、私たちの一行は、ゴールダーズグリーンの駅を降りるとすぐに地域の世話人の家に集まった。その日の行進がテレビで報道されるのを、ティーを飲みながらみんなで観てみようというわけである。テレドは六時台のニュースのトップに、集会と行進の参加者はロンドンで十万人、全国で二五万人を超え、CNDの運動としてはここ数年で最大媚模のものになった、と報じていた。

ティーに呼ばれた家には娘がいた。彼女と私は行進の間に仲良しになって、手をつないで歩いた。そのとき七つか八つであった彼女は、今はもう中学生だろうが、私が折ってあげた不格好な鶴を「鳩だ鳩だ」と喜んでくれたのを思い出す。



第5回 ピットロッホリーの秋

夏を過ぎても「インデアンサマー」というのか、ポカポカと暖かい日が続く一〇月の中頃、私はロンドンに留学していた同僚とスコットランドへの旅にでかけた。日本の経済学者の習わしにしたがって、「国富論」で有名なアダム・スミスにゆかりの地を巡ったあと、私たちはスコットランドのハイランドのほぼ中心に位置するピットロッホリーを訪れた。

この村のことは出口保夫『ロンドンの夏目漱石』(河出書房新社)で知った。出口氏によれば漱石は一九〇〇年(明治三三年)一〇円から二年間のロンドン留学中、ほとんど旅行らしい旅行をしなかった。鉄道で全国どこへでもいけた時代に、漱石はロンドンから一〇〇キロあまりの、文学者なら誰でも行くシェイクスピアの生誕地ストラトフォード・アポン・エイボンにも出かけたことがないという。その漱石が帰国まぎわに旅をしたところがスコットランドのピットロッホリーである。

私はこの山里の秋景色の印象を、「山も谷も黄一色に覆われている村を太陽が冬に向かって傾きながらやわらかく照らしている」と妻に書き送った。というより、漱石の次の文の後にそう書き添えた。

 「ピトロクリの谷は秋の真下にある。一〇月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は起きたり寝たりしている。一〇月の日は静かな谷の空気を空の半途で包んで、ぢかには地にも落ちて来ぬ。と言って山向へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ち附いて、凝っと動かずに霞んででいる……」。

漱石は「ピトロクリの谷は此の時一〇〇年の昔、二〇〇年の昔にかへって」と綴っているが、昔の面影は今の村にも残っている。私たちが立ち寄った村の粉屋には、歴史を重んずるスコットランド人の気持ちを象徴するように、一七世紀から粉を挽き続けているという水車があった。

スコットランドは一七〇七年にイングランドに併合されたが、今日も人々はホテルやロッジに泊まるとき宿帳の国籍の欄に「スコットランド人」と記入する。ビットロッホリーのレストランでサーモンステーキを食べたときのことだ。私たちがその味をほめると、主人が血の滴る鮭を調理場からもってきて、「これを見てくれ、ロンドンの腐った鮭とは違ってまだ生きている」という。

日本に帰ってチャップリンの「ニューヨークの王様」をテレビで観た。政治的に早熟で気位の高い少年が自分を「マックビー」と名乗ると、チャップリンが「道理で!」とうなずく。かの地で、頭に「マッタ」のつく名はスコットランド人であるの同じ程度に、スコットランド人は自尊心が強いと聞いていた私は、このやり取りの意味を即座に合点した。



第6回 バーミンガム、そしてニューリン

今度の気まぐれな旅は家族への便りからはじまった。私は留学中せっせと手紙をかいた。大げさにいえば、月曜日は一番上の子に、火曜日は二番目に、水曜日は三番目に、そして日曜日は妻にという具合いに。

便りは手紙だけではない。金曜日や土曜日の子どもたちには絵はがきを送った。ロンドンには動物、乗り物、風景などの美しい絵葉書が多い。中でも特に喜ばれたのは八枚一組のパノラマ風の恐竜シリーズであった。順番を気にせず五、六枚も送ったころ、子どもからの便りで「絵がつながらないので、残りも送ってほしい」といってきた。しかし、最初のなん枚かを手にいれたチェルシー近くの自然史博物館の売り場にはすでに送ったものしか残っていなかった。それでロンドンのあちこちを捜しまわったがなく、結局、絵葉書の説明に名前があったバーミンガム市立美術館に出かけた。

残りの絵葉書はそこで見つけた。それだけでなく私はこの美術館で「ニューリン派」の特別展示に魅せられた。漁船の甲板に立つ「われらがジャック」という少年の絵。潮の引いた朝の浜辺に無造作にならべられた魚を売り買いする人々の絵。「しかし、男は働くしかなく、女は泣くしかない」と題された、海が荒れて漁師である夫を失ったと思われる妻と母の絵。これらの作品からは潮の香りとともに労働と生活のにおいが伝わってくる。私は海でも川でも水辺がすきで、ロンドンの運河や池でも日本からもってきた竿で釣りを楽しんだ。それだけに私は海に生きる人々と海辺の風景を描いた画家とその作品が好きになった。と同時に、彼らが一九世紀の末に仕事の舞台としたニューリンに、そして彼らの絵を集めているニューリンの実術館になんとしても行ってみたくなった。

スコットランドの旅から半月後の一一月初め、私はボンコツの日本車に乗る友人を誘って、ニューリンへのドライブ旅行に出かけた。ロンドンから三〇〇キロ以上走り、コーンウォール地方に入ってポドミンという村のファームハウスに二泊して、ニューリンの美術館を訪ねた。小さな村の小さな美術館は、すべての絵がバーミンガムの特別展示に貸し出されて空っぼであった。しかし、ニューリンとその近隣の村や町はニューリン派の絵さながらに淡い光のなかに輝いていた。地図にもない野の道を縫ってたどりついたファームハウス、紺碧の海に白壁の家並が映える海辺の村、港につながれた漁船で作業する男たち、ニューリンのすぐ先のランズエンド(Land's End)という地の果ての切り立った崖から見える水平線、見るものすべてがバーミンガムで観た絵の中にあったような気がした。



第7回 ハムステッドの自由病院

ロンドンの冬は四時には日がくれる。それでも昼間が少し長くなった一月の末、私は炊事中に台所で倒れ、救急車で病院に運ばれた。脳塞栓であった。

友人の知らせで妻と兄が駆けつけてきたときには、手足のまひもとれ、口のしびれもはとんどなくなって、もとのおしゃべりな私にもどつていた。まだ少し不自由ではあったが。

病院はロイヤル・フリー・ホスピタルといった。病棟は一〇階にあった。その階の北の窓からは、自然をふんだんに残したハムステッド・ヒ−スの丘が間近に望めた。南側からは地平線を這うような太陽にロンドンの町並みが遠く沈んで見えた。

私は日本でも心臓弁膜症の手術で留学の前と後で二回入院したが、患者へのケアのあり方は国によってずいぶん違うものだと驚いた。入院して意識が回復すると最初に、「あなたの宗教はなにか」「あなたはベジタリアンか」と聞かれた。これは答えのいかんによって食事のメニューを変えるためである。

そのうえ各自の日々の食事も選択メニューになっている。看護婦が夕方、翌日の食事について葉書大の用紙をもってくる。それにはたいてい三種類のメニューが用意されていて、その中から好みに応じてメインデイシュはこれ、ブレッド・シリアル・チップスの類はこれ、飲み物はこれと選ぶことができる。ティーサービスも日本とは違う。食事時とは別に、朝一〇時ごろ、午後三時ごろ、夜八時ごろの三回、係の人が部屋に回ってきて、「ティー・オァ・コヒー?」と訊いて、注いでくれる。砂糖やミルクを入れるかどうかも飲む人の選択である。

日本の病院では付添いがいないと、新聞を買うにも、電話をかけるにも不自由する。それがロンドンの病院では、新聞は雑誌とともに毎朝、病室まで売りにきた。病院の中には図書館があって、自分で歩ける患者はボランティアの人から病室で本を借り出すことがでさた。私が日本に電話をかけたいといったら、看護婦がすぐに電話機をもってきてベッドの脇のコードにつないでくれた。当時のイギリスは、サッチャーのもとで社会保障の切り崩しが始まり医療制度も部分的に有料化、民営化の方向に進み始めたところだった。ベッドが足りず入院待ちの患者が多いとも聞いた。だが私は倒れるとすぐにかつぎ込まれ手厚い治療を受けながら一ポンドも払わずにすんだ。

元気になった今だからいえることだが、異国の病院での一〇日間は、一〇ヵ月の遊学中のどの体験にもよして、日本の生活と文化を振り返る貴重な体験となった。

私は二月初旬、妻と兄に伴われ予定より二ヵ月早く帰国した。


第8回 天安門の民主の女神

中国に私の従姉妹がいる。彼女は科学者である。彼女との前からの約束で、イギリスからの帰りには北京に寄る予定でいた。そのために中国の学術機関から招待状をもらい、年が明けるとロンドンで中国への入国ビザもとった。しかしその直後に病気で帰国を繰り上げねばならなくなり、そのビザは使わずに終わった。

それから二年後の昨年五月、中国で民主化運動が盛り上がり、北京では百万人デモがつづいていたころ、私は以前の約束を果たすために北京にいく準備をしていた。ところが出発二日前になって、突然、北京に戒厳令が布かれてしまった。

テレビも新聞も戒厳軍がすぐにも市内を制圧するかのように報ずるなかで、同僚は「こんな情勢で行くのは危ない」という。通訳兼案内役の従姉妹の息子は、「おじさん、歴史的な大事件に立ち会うチャンスですよ」と決行をうながす。北京に電話をかけると、まだ軍は動いておらず、市民生活は平静を保っているので安心して来るようにということである。結局、予定どおり五月二二日大阪を発ち、上海に立ち寄ったあと、ニ四日の夕方北京に入った。

上海では百万人と報じられた大規模なデモに遭遇した。北京でははとんど連日、天安門広場に出かけた。広場中央の人民英雄記念碑の回りには無数のテントと大学名を記した旗の列。横断幕やステッカーからは「専制反対」「報道自由」「腐敗追及」などのスローガンが読み取れた。戒厳令後、日に日に減ってはいたが、なお数万の学生が座り込みに参加しているようだった。

五月三〇日、人民代表大会の開催を求めて座り込む学生の意気を高めるためか、天安門と人民英雄記念碑の間のテント村に「民主の女神」が建てられた。翌日、大勢の市民に交じって純白のその像を見物した。高さ十一メートル、費用一万元、美術系の学生が作って三台の三輪荷車で運び込んだと聞いた。

六月二日になると、市内の大きなホテルには一斉に中国共産党をたたえる垂れ幕が掲げられた。天安門では軍当局のスピーカーが学生の放送をはるかに上回るボリュームで学生の行為を「暴動」よばわりしていた。

三日には、ついに戒厳部隊が動き始め、学生と市民の包囲を破って、地上と地下から天安門近くに姿を現した。私は「暴力反対、人民の血は水ではない」という字幕を掲げたデモをあとに宿舎に帰った。戦車と装甲車が広場を血で染めたのはその夜から四日未明にかけてであった。

前夜の噂が街を暗く包む四日朝、私は従姉妹らとともに、大通りを避け郊外の細い道を縫うようにして北京空港に急いだ。民主の像が再び建つことを念じながら。 (完)


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