かなり 実録 バレー部物語

・惨敗からのスタート

1967年(昭和42年)7月、東北リコー設立。翌年の1968年春、夢と希望に溢れた1期生が入社した。
1968年といえばメキシコオリンピックの年。男女バレー全日本チームが世界で強かった時期でもある。

「俺達もちょっとやってみようか」
社員有志を集めて出場したのは地元柴田町のバレーボール大会。
全日本とはいかないまでも、かっこいいアタックを打ってみたい・・・。「経験者も数人いるし、なんとかなるだろ」
町レベルの大会ならこれで十分優勝を狙えるはずだと挑んだ試合であったが、ロクに練習もしないで勝てるわけがない。
「もうちょっとなんとかなると思ったんだが」打てない、拾えない、つなげない・・・結果は船岡自衛隊、東北大江工業等に完膚無きまでに叩きのめされた。

普通なら“まあこんなもんだろう”となるはずが、このメンバー、負けず嫌いが多すぎる。
「悔しい!」「このままじゃ終わんねっちゃ」「勝ちたい!絶対勝つ!!」「・・・そう、会社にバレー部を作ろう!」

社員に声を掛け合い何とかメンバーを揃え、監督に角谷重光、初代主将を伊藤政吉とし、ここに東北リコーバレー部が発足した。ただし、創部当初は愛好会としてスタート。
「よし! 目標は打倒船岡自衛隊!」 さあいよいよ活動開始・・・と、待て。まずはアレを作らなければ始まらない。 


・大地との格闘

さて、バレー部ができたのはいいが・・・会社に体育館があるわけでもないし、バレーはまだまだ外でやることが当たり前の時代、とにかく練習できるコートを作る必要があった。
草木も茂る会社内敷地(現サッカーグラウンド)の一角。荒れ放題の土地を少しずつ整備し、やっとの思いで待望の手作りコートが完成した。

昼休みと就業時間後の練習、特に夏場の昼休みの練習などは、汗と泥を洗い落とすのに時間がかかり、昼食の時間が無くなる場合も多々あった。
汗の臭いがブユを誘い、動きを止めようものなら格好のえさにされてしまう。また、天候と雑草にも悩まされた。
その後、現在の更衣室脇の藤棚辺りに移動するものの、大して改善はされなかった。

晴れたら晴れたでホコリが舞い、雨が降ったら何もできない・・・・天候次第の練習で計画なんてあったもんじゃない。
ぐらついて高さが一定にならないネット、水分をタップリと含んだめちゃくちゃ重いボールは、風も後押し、縦横無尽に転がっていく。
フライングレシーブをすれば衣服がボロボロ、生傷も絶えなかった。

そこはとても「練習したい」という状態には程遠かったが、部員の目は生き生きとしており、厳しい練習の中にも活気にあふれていた。

しかし、大会では部員も揃わず、女子マネージャーを加えての試合では勝てるわけもなく・・・自衛隊が強いというよりも東北リコー弱すぎ!
平均身長170cm以下、速攻なんてとてもとても・・・
負けて当たり前、涙する者無し、不様な試合が続く。


・全国へ?

全国大会初出場!・・・実はコレ女子バレー部の話。
バレー部は男女とも創部されたが、創部して早々に女子が全国大会(日本産業人)に出場した。

「と言っても推薦だからな。別に羨ましく思ったり先を越されたなんて考えたことはない。でも全国大会は全国大会、女子の方が上に見られることはあったが・・・こっちはそんなこと思ってる余裕などなかった」と、村上は当時をこう振り返る。

宮城県に実業団の女子バレー部など殆どない状態では、当たり前の出場かもしれないが、男女問わず今後の活動には良い刺激となったはずである。