かなり 実録 バレー部物語

・町から県へ

1969年、新入部員が加わったものの、それほどレベルアップしたわけでもない、相変わらずの連戦連敗。
しかし練習後の飲み会はただ事ではなく、「どのチームより勝っていた」くらいの勢いであった。そりゃそうだ、練習後“毎日”なのだから・・・
酒の肴は何でもいい。しかし酔えば酔うほどバレーの話にのめり込んでいく。
頭の中は「どうしたら強くなれるか?」という思いで破裂しそうだ。オイオイ、仕事は?

このころから県大会を意識、手始めに県民大会(全国に出場していないチーム同士の大会)に参加する。会場は仙台の青葉山テニスコート、もちろん野外なので勝敗は天候に大きく左右された。
予想もできない風が吹き、とにかく高いサーブを打っていれば勝手にミスをしてくれる。が、それは自チームにも見事に当てはまった・・・多少粘ったものの、完敗。
東北リコー 0(19−21、6−21)2 仙台通産局

1970年、ようやく試合らしい布陣を組めるようになり、バレー部も愛好会から部に昇格、本格的活動に入る。

バレーらしい練習ができるようになって動きも軽やか、「いつまでも情けない試合はしたくない」思いも強くなった。
そして迎えた春の柴田町大会、レフト伊藤のスパイクが決まる! 他の選手もリズムに乗る。 「これだ、この感覚!」 忘れかけていたバレーの楽しさを実感する。 そしてついに船岡自衛隊を破り念願の優勝!!
もちろん試合後は大祝勝会、飲み明かしたのは言うまでもなく、翌日、翌々日も宴は続く。
「いつかは宮城県、いや、東北一になる!」 飲んだくれ男達は思いを馳せる。

◇  ◇  ◇

5月に柴田町公民館落成、いよいよ屋内での練習が可能になり、より充実した環境が整いつつあった。

「さあ、町の次は当然県の優勝を狙わなきゃな」 斎藤主将の下、練習は厳しさを増す。
しかし実業団宮城県予選では、仙台市役所に2セットとも13点で敗北。
県には電電仙台、電電宮城、東北金属、仙台市役所・・・強いチームがゴロゴロいた。
「レベルの差はまだまだある。しかしウチだって確実に強くなっている」 今年度から指揮を執る監督の村上は、僅かではあるが手応えを感じていた。 


・一番の悩み

1971年、気仙沼・大島でキャンプを行い、初めてチームとして寝食を共にする。
また、バレー部が活動する上でしっかりした方針が必要と感じた村上は、部の基本的な考え方として、
1.健全な部活の運営、2.部活の存続、3.伝統の継承、4.地域への貢献、を掲げた。

しかしなんと言っても頭痛のタネは部員の確保。
何しろ引退が早い。1人入っては1人抜けるという感じで、なかなか層が厚くならず、時には9人ギリギリ・・・社内公募をしたこともあった。
とにかく人が揃わなければ試合どころではないし、怪我・体調不良さえ許されない。
練習も常に全員が集まるわけではないので効率が非常に悪くなり、ヤル気も削がれた。
この部員不足は当分続くことになる。

「確かに部の存続で苦労した。しかし、引退した仲間の中にはママさんやスポーツ少年団等の指導者として貢献している。この姿を見ると、考え方に間違いはなかったと思っている」(村上)

この年の実業団宮城県予選、陸上自衛隊仙台に勝利し1回戦を突破、2回戦で昨年度に引き続き仙台市役所と対戦、今度ばかりは負けてなるかと必死の形相で戦うも、フルセット負けを喫する。
「惜しい! 次は勝てるぞ!!」 選手に自信が湧き始めた。
東北リコー 1(21−15、19−21、17−21)2 仙台市役所

◇  ◇  ◇

・・・1972年、ある男の入部で負けっぱなしの状況に終止符が打たれる。