かなり 実録 バレー部物語

・一本化

1973年も春になると柴田町公民館に予約が殺到し、申し込みが思うようにできなくなっていた。
それに「半澤に上げるトスが高すぎて低い公民館の天井にすぐ当たってしまう」なんていう不具合のオマケ付きだ。

そこで柴田町内の小中学校体育館開放へ向けて、町へ陳情することにした。
「外でやるよりはよっぽどマシ」。 屋内を経験したら、もはや外でやることなど考えられない。
その願いは受け入れられたが、公民館+小中学校体育館を転々とする放浪生活に入った。

更に練習場所確保、新人発掘を兼ねて練習試合を申し込む。
仙台大、鶴岡高専、宮城高専、相馬高、柴田農林高・・・数年に渡り転戦するも惨敗が多かった。

この年、初合宿を“磐梯青年の家”で行う。 自由好きのおじさん(おにいさん?)達にとって厳しい規律は堪えたが、それが功を奏したか、2年続けて産業人東北大会(宮城県白石市)に出場する。

準決勝の相手は昨年と同様、東北機械。
今年度からブロック強化のため、セッターをセンスの大内から高さの加藤へスイッチしていたものの、攻撃はセミとオープンに変わりなく、今度は相手に研究されていた。「どんなに凄いアタッカーがいたとしてもトスが上がらなければ打てぬ」。 サーブで揺さぶられ、つなぎで勝る相手にしびれを切らしてミスを重ねる東北リコーに打つ手はなかった。
東北リコー 1(21−19、9−21、12−21)2 東北機械

全国大会出場を逃した東北リコーは全日本総合の宮城県予選にも出場、その準決勝で、もはや天敵とも言える仙台市役所にいいところなく敗れている。
世の中はオイルショックによって混乱、東北リコーも少なからず影響を受けた。にもかかわらず、試合に出してもらえたという喜びを忘れてはいけない。だからこそ、強くならなければ・・・

◇  ◇  ◇

1974年、村上は決断する。
「今までは6・9人制とも公式戦に出場していたが、身長の低さ、自分達に合った技術から見て9人制一本で行くべきだ」と。
同じバレーボールとはいってもルールは全く違う。いままでもメインは9人制であったが、二兎を追っても成果が見えない状態で、ついに6人制と決別することにした。
その後もたまに6人制の大会に出場してはいるが、ウェイトは完全に9人制となった。

産業人県大会、順調に勝ち進み決勝は陸上自衛隊仙台。やはりレフトのスパイクは群を抜く。ミスは多いものの接戦を制し優勝した。
東北リコー 2(21−19、21−15)0 陸上自衛隊仙台

昨年の雪辱を晴らすべく3年連続で産業人東北大会(青森県)に出場、しかし単調な攻めでは、もはや通用しなくなっていた。無念にも予選リーグで敗退(0勝2敗)してしまう。

総合県予選は昨年をリピートしているかのような準決勝での仙台市役所戦。1セット目をデュースの末に落とす(22−24)と、力無く敗れ去った。


・交流試合

1975年、リコー厚木事業所の体育館が落成、東北リコーが招待され記念試合が行われた。
1972年のキヤノン、リコー、東北リコーの親善試合。あの時のリコーの選手が厚木事業所に多く配属されていたのだ。
既に旧知の仲と言わんばかりに、試合、懇親会とも大いに盛り上がった。
これ以後、神奈川県厚木市と宮城県柴田町で交互に開催される、リコー厚木vs東北リコーの交流試合がここに始まったのである。

互角の実力を持つ両チーム、「県大会には負けても、あそこだけには負けるわけにはいかない」という迫力が伝わってくる。
それは懇親会でも同じこと。特に試合で負けた方は、「飲み会まで負けるんじゃない!」とばかりに暴れまくった。
そしていつしか「全国大会で会おう」が合い言葉になっていた。

ゴールデンウィーク中の開催は、移動にかなり難儀したようであるが、そのシーズンの出来を占う意味では、非常に有意義な試合となった。
なんたってこんなに気合いが入る練習試合は他にできないのだから。

またこの年、リコーバレー部の選手だったこともある白幡が部長に就任、組織的にもより強固なものとなる。