かなり 実録 バレー部物語

・不滅の魂

「このままでは先が知れている。この状況を打破しなければ・・・」
雪の舞う1978年初め、来シーズンに向け単調な攻撃力を改善すべく村上は悩んでいた。と、そこへ訃報が。

アタッカーの山田が不治の病によりわずか27歳の若さでこの世を去った。
本来、この病気は幼少時に発病すると早期に死に至るとされる病で、この年齢まで生存した例は珍しいとのこと。もちろん部員は誰も知らなかったため、「まさか」と絶句してしまった。

「よくぞこんな持病を抱えながら弱音を吐くことなく、厳しい練習に耐えてくれた」
山田は高校までバレー経験は全くなく、入社後、村上がその身長(188cm)に魅力を感じて勧誘したのだった。

「四角いコートはバレーをするだけの物ではない。精神力の逞しさ、フェアの心、礼儀正しさ等を身に付ける場でも有るんだ」と言っていた事が強く印象に残る。
試合後の反省会、中には失敗した時の言い訳を最初から用意している者もいたが、山田は自分の問題として素直に受け入れ全力で克服していった。
この様な結果が訪れることを予期していたかのように・・・

当時のバレー部は背番号をFLが1、FCが2・・・BRが9と順番に付けるのが慣例となっていた。村上は主力アタッカーに成長したHRの山田をセンター(FL)に起用し、Aクイックを絡めたフォーメーションを展開しようとの戦略があった。

その矢先の出来事。 断腸の思いで、今年から着用する筈であった背番号1をその“ユニフォーム姿で見守っていて欲しい”という祈りを込め、永久欠番とした。

村上は棺の中にユニフォームを置き、誓う。
「見ていてくれ、必ず強くなってみせる」
背番号1のないバレー部。それは常にNo.1を追い求め切磋琢磨しているようにも見える。天から叱咤されながら・・・


・宿敵

もっとレベルの高い相手と練習試合をしたい。
東北リコーと同等のチームはたくさんあるが、それ以上となると関東以西になってしまう。とてもそこまで遠征する余裕はない・・・

そこで出会ったのが専売山形。
つてはあった。京都の全日本実業団選手権で共に宿泊した山形酸素の選手が専売山形に在籍していたのだ。
ここから東北リコーと専売山形(→日本たばこ山形→JT山形→JTクラブ山形)との長い付き合いが始まる。
「えーっと、11点ぐらいでいいよな?」
両チームには力の差がありすぎるので点数のハンディキャップをつけて試合を行ったこともある。
山形にしてみれば、近場で全国目指して血気盛んに活動しているのは東北リコーぐらいしかないし、エースだけは全国レベルなので、それの対応としての練習価値はあったかもしれない。

それにしても動きが違う。打っても打っても決まらない、そのうちこっちが勝手にミスをして自滅する、打たれると人のいないところにボールが落ちる・・・
「やっていて恥ずかしいくらいだ。ライバルと言うにはおこがましい」 けれどもこんな弱小相手に付き合ってくれる山形のためにも全国で勝てるチームにならなくては申し訳ない。
完敗の中にも光明を見つけるべく、試合は続く。

実業団県予選1回戦、同町のライバル・柴田町役場をフルセットで振り切るが、2回戦で東北金属に惜しくもストレート負け。
東北リコー 0(18−21、20−22)2 東北金属

気合いを入れて臨んだ産業人県大会はブロック決勝(2ブロック制で、各ブロック優勝チームが東北大会に出場できる)で電電仙台にストレートで敗れ、なかなか強化の結果が出ずに苦しい戦いを強いられる。
東北リコー 0(13−21、8−21)2 電電仙台

試行錯誤が裏目に出たのか・・・「努力を怠らなければ必ず結果は出る。今は辛抱の時だ」
果たして捲土重来のきっかけを掴むことができるのか?

◇  ◇  ◇

翌年は東北の企業として初のデミング賞受賞に向け、全社一丸となっており、バレーどころではなくなった。活動は続けるものの、練習も人がなかなか集まらないためベストの状態にはほど遠く、外部大会は見送ることにした。
しかしこれによってバレーへの情熱は、より強くなったかも知れない。