かなり 実録 バレー部物語

・今を生きる

3月11日金曜日…今日もいつもとそれほど変わらない日常のはずだった。14時46分、「お、地震だ…」ガタガタと社屋が鳴る。余裕だったのはほんの僅か、その揺れは治まるどころか増々大きくなった。「ガシャガシャガシャン・・・」建物がきしむ、物が落ちる、色んな音が入り雑じる。耳をつんざかんばかりの震動音だ。
立っていられない。とにかく凄い、どこかにしがみついていなければ吹っ飛ばされる。揺れが弱くなったと思ったらまた強くなる…長い…終わらない…まだ続く…いつまで揺れるんだ? 2分、いや3分?とにかく長時間揺れたことは確か。・・・・・・ようやく治まった。が、埃で視界が悪く、デスク上のものは床一面に散乱し、足の踏み場もない。
マグニチュード9.0、最大震度7、日本国内観測史上最大の地震が発生した。いわゆる東日本大震災である。

ここからは当サイト管理人の体験・主観を交えながら記載します。

「マジかよ…」テレビや映画の派手な演出で見たことのあるような光景が現実に起こっている。訓練ならここでどのような行動をとるべきか、社内放送での指示があるはずだが音沙汰なし。この衝撃じゃ、そんなの無理であろうことは想像に難くない。
上司の判断で避難場所へ退避。みんな一斉に手元のケータイで家族の安否確認を取ろうとするが通話はダメ、ほとんどつながらないと思われる。メールはなんとかつながり確認だけはできているようだが、いずれは通信もダウンするだろう。
宮城県沖地震クラスなら、30年以内に99%の確率で発生するとは聞いていたが、これなの?そんなレベルじゃないでしょ。

「いったいどうなるんだよ…」外はまだ寒く、雪が舞う時がある。ワンセグ対応のケータイで情報収集する社員に群がる。余震があるたび「おおおっ」とざわめくが、いたって冷静。
社屋倒壊の恐れがあるため、簡単に居室には入れそうもない。1時間以上は外で待たされただろうか…社内放送が回復し、余震が少なくなったのを見計らい帰宅指示が出たが、総務などに在籍している部員は、社内見回りや交通整理に奔走している。解散前に出社している社員は全員無事との報告が入った。

主要道路は大渋滞。しかもところどころ陥没していたり段差があり、注意しないと事故を起こしかねない。なるべく裏道を抜けて何とか自宅にたどり着いたが、停電、断水、都市ガスの地域はガスも絶たれ、ライフラインは甚大な被害を受けた。自宅はプロパンだったので、火を使えたのは助かった。バレー部掲示板に「従業員は全員無事」と書き込んだのが17時33分。
今後、外部からの安否確認手段が絶たれる中、最終的には本人に確認を取らなければ完全に安心はできないものの、多くの人々が一時的とはいえ掲示板でほっとできただけでも、このサイトを運営してきた意義はあった。
自宅での夕食、食料にはまだ困らないが、これからどうなるか全く予想がつかない。電池も無駄にできないため、ロウソクの下での食事となった。

ラジオや車のテレビで状況を確認。海沿いの民家はほとんど壊滅している。「ウソだろ…ありえない」 ・・・・とても本当のこととは受け止められない。津波がこれほどの威力、しかもこんな内陸まで上がってくるとは。海沿いに住んでいる社員の家族もいるので、安否が非常に気になる。
当社が立地する柴田町に海はないが、名取市、岩沼市は仙台東部道路が分かれ目らしく、そこから東は相当な被害。亘理町、山元町は常磐線を飲み込んでいるらしい。テレビは石巻市とか三陸方面がメインなので、県南部の情報がよく分からない。
いとも簡単に津波で家々が飲み込まれていくシーンが何度も放映されている。10年前、宮城国体で全国初制覇を果たし、お世話になった志津川の街並みも跡形なく消え去り、試合会場だったベイサイドアリーナが避難場所になっている。(後日、幸いにもお世話になった宿の従業員方々は無事との情報をいただく)

◇  ◇  ◇

水も電気も復旧不明、食料不足の状態で暮らすことの不安さは半端ではない。ただし飲料水はたまたまペットボトルを箱買いしてあったものがあり、給水車で水も確保できる。地震直後はまだ水道から水が出た(ただし汚れている)ので浴槽にためておき、トイレなどは当分大丈夫。カップめんやお菓子がそこそこあり、冷凍食品も自然解凍で食べられるものがあった。自宅には倉庫に眠っていたストーブが活躍し、寒さも凌げている。災難でも恵まれたほうだ。

どこかのショッピングセンターが営業を開始するとの情報を得る度、数時間並んで一人何品目か限定で必需品を購入する日々が続くことになる。公民館や小学校は避難場所になっており、使用頻度の低い毛布など提供。
会社は自宅待機、断水は14日、停電は15日に復旧。それまで身体を拭くことしかできなかったが、ようやく風呂に入れた。日常の生活に近くなるにつれ、喜びも増す。
原子力発電所爆発の影響が心配。何しろ情報がほとんど伝わってこない。はっきりしたことは、想定外の現象が起きたときの放射性物質は人間の手に負えないということ。今後、耐震や防潮堤などが議論されていくが、想定外なのはそれだけではないはず。
千年に一度の地震? 戦争は終わってまだ70年弱だし…ミサイルとか人工衛星とか隕石とか落ちたらどうなるんだろう…なんて考えてしまう。(隣国の動向や2013年のロシア隕石落下など、荒唐無稽ではないはず)

15日、現状把握と、もし店舗が開いていれば物資確保も兼ねて車を走らせる。特に渋滞はない。駅は封鎖されており、コンビニやスーパーは閉店している。ガソリンスタンドには車が列をなしている。が、よく見ると誰も乗っていないし、スタンドも開いていない。探し回るよりも開店を待った方がよいとの判断だろう。営業しているスタンドを見つけたが、なんと200台以上が並んでいる。最後尾はスタンドも車もタンクが空になってしまうのではないか?
それにしてもコンビニや車がほったらかし状態でも暴動や略奪などが起こらない日本は、なんて安全な国なんだと改めて思う。

16日になると新聞などの情報では開いている店、営業時間が増えてきた。食料は緊急を要する状況ではないが、朝イチ開店に行かないと品切れの不安はある。余震は少なくなったものの、体感できるものはまだまだ多い。スーパーに人が並んでいるが、最後尾は“本日分終了”と書かれているプラカードを持った店員が立っており、まだ品不足感は大きい。
19日にはホームセンターの日用品は一部限定品があるものの、それなりに手に入るようになり、内陸ならたった一週間でここまで復旧するに至った。自転車やガスコンロを買っていくお客さんがいる。そう言えば街は自転車がやたら目立つ。

生鮮食品は売っているお店がまだほとんどなく、集中するので当然混む。2時間くらい並ぶ覚悟があれば買える。テレビのあるコメンテーターが「今までと同じ生活水準をしようとするから混むんだ」と言っていた。震災の爪あとはまだ大きいものの、身の回りは少し落ち着いてきた。

◇  ◇  ◇

3月28日、17日ぶりの出勤。朝に津波注意報が出る大きな余震があった。今まで生きてきた分以上の地震体感を2週間ちょっとでしてしまったように思う。出勤と言っても全社員一斉とはいかず、とりあえず各部門単位で状況を確認し、出られる人は出るという形。社屋、設備に被害が出ており、全て復旧するには時間がかかる。これより以前に近場の社員中心に出勤し、片付け全般など対応いただいている。
体育館は復旧優先のため対策本部として多目的に使用されている。バレー部の部員は無事であったが、OB含めて家族、親戚、知人、友人に被災された方がおり、現時点ではまだ活動という域には達しない。しかしある時期を目標に活動を再開しようとする動きはある。

放射能パニックの心配はあるものの、身の回りではショッピングセンターに物資が増え、コンビニも開いている店舗が増えた。テレビは未だに生活情報がテロップで流れ続けている。ガソリン、灯油は並ばないと手に入らないが、確実に復興していくのが感じられる。

4月になって初めて東部道路より東側に行ってみた。2次元なテレビでは俯瞰的で他人事のような気がしてならない。絶対に生で見ておくべきだと感じたからだ。交通規制でさすがに海岸線までは行けないが、潰れた民家陸に打ち上げられた船ひっくり返った車があちこちに点在する。
まさしく絶句。この惨劇を目の当たりにしても、これは現実なのか?と問いかける自分がいた。

生きていること、生かされていることを実感、感謝し、一歩ずつ前へ。今はそれしかない。