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過去(HP開設以前)からの観戦の思い出あるいは単なるリスト

2002年度 ◆ マリノス編 ◆ (26試合)

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・ 実際にスタジアム観戦した試合だけです。
  (手許にチケット半券の残ってるもの)
・ まだ空欄が多いですが、 コメントはざっくばらんに思い出したものから記入しています。
・ 一番上が最新です。

●2002年12月15日 三ツ沢
第82回 天皇杯 全日本選手権大会 3回戦   横浜F・マリノス vs 駒澤大学


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●2002年11月23日 横浜国際
2002 J1 2ndステージ 第14節   横浜F・マリノス vs 名古屋


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●2002年11月16日 横浜国際
2002 J1 2ndステージ 第13節   横浜F・マリノス vs 市原


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●2002年10月26日 国立
2002 J1 2ndステージ 第11節   横浜F・マリノス vs 磐田


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●2002年10月19日 横浜国際
2002 J1 2ndステージ 第9節   横浜F・マリノス vs 鹿島


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●2002年10月13日 国立
2002 J1 2ndステージ 第8節   柏 vs 横浜F・マリノス


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●2002年10月6日 三ツ沢
2002 J1 2ndステージ 第7節   横浜F・マリノス vs 京都


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●2002年9月28日 横浜国際
2002 J1 2ndステージ 第6節   横浜F・マリノス vs 東京


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●2002年9月21日 東京
2002 J1 2ndステージ 第5節   V69 vs 横浜F・マリノス


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●2002年9月18日 横浜国際
2002 J1 2ndステージ 第4節   横浜F・マリノス vs 札幌


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●2002年9月14日 仙台
2002 J1 2ndステージ 第3節   仙台 vs 横浜F・マリノス


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●2002年9月7日 横浜国際
2002 J1 2ndステージ 第2節   横浜F・マリノス vs 広島


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●2002年8月17日 国立
2002 J1 1stステージ 第-節   横浜F・マリノス vs 清水


あ〜あ、 優勝できなかった。 イワタがどうあれ自分の方が勝たなきゃどーにもなりませんぜ、という試合。 今日は、 ドゥトラ不在も大きいのかな。 向う (清水)なんてデキよくなかったじゃんね。
ところでこの直後、 奥の奥さんが例のHPの 「日記」 で 「優勝できなかった・・・」 と同じように悔しそうに書いていたのを読んでからそれ以来、 それ以前より共感を持って彼女のそのHPを読みに行くようになったと思う。
(Jul.2004)



●2002年8月11日 カシマ
2002 J1 1stステージ 第14節   鹿島 vs 横浜F・マリノス


完全にここで1stステージの運命を分ける試合になった。今季リーグ戦でこれまで13試合無敗だったのにここで初の黒星。イワタに勝って以来守ってきた首位から陥落してしまった。
去年と同じく行きは電車で帰りは上野行きバス。電車でも大阪行くのと同じくらい時間がかかる。乗継ぎの際連絡が最低に悪く、途中駅で40分かそれ位も待たされた。ヒマ過ぎるので真夏の灼熱の太陽の下ペットボトル片手に、どうせ何もない駅周辺商店街(まぁ集落)を歩きまわってみることにした。でも本当に何もないので数分歩いた先にあったスーパー(?)のようなものの中を一回りして駅まで戻って来ただけ。
この僻地を地盤にしてうまく金稼ぎしてきたブラジル人が今度トルシエの後を受けて代表監督になるという。試合前にスピーチがあったが誰が拍手なんぞするものか。
このとき自分の前に座った男3人組は拍手をしていた。見ると連中はなんとなく顔つき、服装、髪形 (以上、ガラが悪い)、 話し方が違う (横浜、東京風じゃない)。 聞こえてくる会話もなんかおかしい。 人種差別的でアレだがこれはここの地元民だなと思った。 案の定、 試合中向うが得点したら喜んでいやがったし、 マリノスのダメ・シーンで私が思わず地団駄踏んだときたった1回前のイスを軽く蹴ってしまったら連中の1人であるその席のヤツが振向き何かボソッと言ってこっちを睨みやがった。 いわゆる 「イソ」 がイヤ (それは分かるが) だからって地元民であのチームを応援するならアウェイ用ゴール裏席なんかに来んな。
まぁそれは小さなこと。 そんなことより試合が進むにつれて大変なことをやってきやがった (失礼)。 ふと気付くと向うのゴール裏の向こう側から大掛かりな舞台装置のように真っ白な霧がぶわあ〜っとスタンドを超えてピッチへ吹き出しはじめて、 やがてこっち側へ向って来る。そしてついにはその霧がスタジアム全体を覆ってしまった。 さっきまでは真夏の猛暑だったはず。半そでシャツでいることが確実に寒くてしょうがなった。
あの霧はマジですごかった (公式記録にも霧と書かれている)。 まさに 「霧の中に消えた勝利」、 山岳地じゃあるまいしあんな経験は初めてだ。 恐ろしや鹿島国。
(Jan.2005)



●2002年7月27日 国立
2002 J1 1stステージ 第11節   横浜F・マリノス vs 柏


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●2002年7月21日 国立
2002 J1 1stステージ 第9節   横浜F・マリノス vs V69


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●2002年7月13日 三ツ沢
2002 J1 1stステージ 第8節   横浜F・マリノス vs 仙台


まぁとにかくW杯は終わった。 さあ、 リーグ戦だ!
( 「○球だろ」 なんて言ってるヤツら (書いてる雑誌) がいたけど、 ○球じゃねえよ何言ってんだバカ! 米国の国技の猿マネごとき○球は既得権益者共の痴呆道楽だ。 あんなものを好き好んで見てるつもりなのはヤツラに騙されてるだけだ。 それがわかんねぇからバカだってんだ。 選手はヤ○ザと区別がつかないし、 そして試合時間の半分以上ベンチに座ってて、 プレイ・タイムがたった20分余り (というのを聞いたことがある)。 大体ムダに長すぎるんだよ、 いつ終わるんだ試合は。 みんなが迷惑してんだぞ! ・・・余計なことを書いてしまいました。 ただこの当時のくだらない出版物に腹がたっただけです。)

この年昇格してきた仙台との初顔合わせ (ブランメル時代に天皇杯ではこっちが負けている)。

夜19:00の試合だったが、 それまでも大応援団を各アウェイの地へ送り込んでいて話題になっていた仙台サポがこの日も狭い三ツ沢へ大挙して来るのが予想されていたからずいぶん早めに出掛けたはず。 着いたのはそれでも15:00前くらいだったろうか。 夏の午後の暑い陽射しの中、 列が三ツ沢公園の入口でいつものように一旦折り返してゴール裏〜バックスタンド用入口を通り過ぎメインスタンド入口さえ大分過ぎたあたりでやっと最後尾に並ぶことが出来た。 既に相当な数の黄色い (実はゴールドらしい) ベガ・サポがトリ・コロールに混じって列に並んでいた。 有名な 「仙台帝國」 HP内の写真で見たことのある人物たちの顔も列の中に見かけた。 W杯直後ということもあって当然マリノス・ファンの方もそれまでの最近の三ツ沢での試合に比べかなりの人数が来ていると思われた。 やがて、 やはり仙台からやってきた某身内の仙台サポと合流。 開門を待った。
結果的にこの夜三ツ沢はまさに立錐の余地も無い入りとなった。

清水監督率いる向うはJ1での初戦から勝点を重ねて快進撃中だった。 迎え撃つべきマリノスは4月の前節磐田戦を終えて首位に立っていた。 でもこの試合では怪我で俊輔とウィル、 ナビスコでレッドをもらったドゥトラといったところがいない。 奥がウチに来てから一人司令塔を任された最初だったと思う。 FWも今日は結局坂田 (当時19歳) と祐大朗 (17歳) の、 題して 「未成年2トップ!」 ということで攻撃力的に実際どうだろうかという感じ。 仙台には勢いがあったし昇格チームになぜか弱いウチとしては不安が無いわけではなかった。
でも試合が始まると坂田と、 当時高校生ながら特別強化指定でマリノスの試合に出た阿部祐大朗の2人はなかなかいい動きをした。 そして後半向こう側仙台サポ側のゴールに奥とナザ (たしかグラウンダー気味のFK) が得点を決め勝利。 再開後のいいスタートになった。

(Jul.2004)



●2002年5月12日 三ツ沢
2002 Jリーグ・ヤマザキナビスコ・カップ 予選リーグ 第6節   横浜F・マリノス vs 市原


ひどく荒れた試合だったような記憶はかすかにある。 結果的にこの試合に負けてトーナメントへ行けずに敗退してしまったのだから、 そのこと自体は誰それのせいということではなく力が無かったチーム自身に問題があったのだという気になれないこともなかった。 この日を終えた時点では。

1.市原 11
2.G大阪 8
3.横浜 7
4.京都 6

だがしかし、 この試合の日の2〜3日後にW杯に出場の最終代表メンバーが発表され、 その中に名前があったのはマツただ一人。 愕然とした。 公式戦の最中に5人もの主力メンバーを剥ぎ取られそのあげくその期間終了後にほとんどそっくり返してよこすという仕打ち。 しかもその発表の記者会見に代表監督本人には出席しないという (これに合わせて事前につまらぬ理由をつけて海外へ逃げた) その態度。
このとき同じように怒った人の多くは俊輔が外れたことに対し激怒していたと思う。 もちろん私もそれには相当驚いた。 だけどそれ以上に、 錚々たるウチの主力メンバーをチームメイトの試合期間中にごっそり連れ去られて、 単に練習相手をさせられ、 そしてどうせ結局選ばれない選考に付き合わされて、 しまいにはつれなく返品扱いしてよこされたことが、 バカにされたようですごくおもしろくなかった。 なんのためにそんなに集めたんだ、 臆病者め! (この文章は感情的に書いているのでたとえこれに対し理屈で答えられてもしょうがない。 また、 マリノスが 「返却率」 で実際いちばん高かったのかどうかも実証とかしないでおく。) という感じ。 俊輔一人については彼が怪我気味ということもあったし、 まぁ監督の戦術上の考えなどで致し方ないところもあったと思う。 マリノスのファンとしてものすごく残念には思ったけれど。 でも選ばれないとはやっぱり信じられなかったね。
この5月中旬頃はほとんど、せっかくの日本でのW杯なのに 「日本なんか (トルシエ・ジャパンなんか) 1勝も出来ずに世界中に恥をさらす結果になったって悪いけど別にかまわんよ!」 という気持にさえなっていた。 それくらいこのときトルシエには本当に頭に来た。

・ やがて、 マツだけでも頑張って来い! →ニッポン頑張れ! という気持にやっとなれたのはW杯開幕後のこと。
・ あとで見た例のドキュメントDVD 「六月の勝利の歌を忘れない」 の中で選手たちが言ってたセリフでは 「どうせ使う気ないクセに。」 というのが一番印象に残ってます。

ナビスコカップについてでありながら、 今なおやはり以上のようなことをウダウダとここに書いておかずにはおれなかった。

チームはこのあと代表から戻ったメンバーも含め御殿場などで合宿、 そしてW杯のため既に来日していたナイジェリア、 ウルグアイと親善試合。 ナイジェリア戦はムリして観に行ったんだけど楽しかった。

(Jul.2004)



●2002年5月9日 横浜国際
2002 Jリーグ・ヤマザキナビスコ・カップ 予選リーグ 第5節   横浜F・マリノス vs G大阪


このチームには2勝出来た。 第5節を終わって勝点7で2位に付けていた。
(さっぱり試合内容は覚えてなくて・・・)

1.市原 8
2.横浜 7
3.京都 6
4.G大阪 5

(Jul.2004)



●2002年5月3日 横浜国際
2002 Jリーグ・ヤマザキナビスコ・カップ 予選リーグ 第3節   横浜F・マリノス vs 京都


ホームでこの相手でも0-0の引分けが精一杯だったのかな。

(Jul.2004)



●2002年4月27日 市原臨海
2002 Jリーグ・ヤマザキナビスコ・カップ 予選リーグ 第1節   市原 vs 横浜F・マリノス


例によって毎年大会方式が変わるわけだが、 この年は前年までと変わってJ1だけの参加で4チームずつのグループリーグをH&Aで戦い上位2チームが決勝トーナメントへ進む方式。 (トーナメントは1回戦勝負)
中断に入ったリーグ戦のあとを受け集中的に約半月間で6試合のグループ・リーグが行われた。

リーグ戦より軽視されるのも恒例で、 このときもW杯のための最終選手選考を前にした代表のキャンプと試合が丸々そっくり平行して組まれてしまっていた。
トルシエによって今回ウチからは松田、波戸、中澤、俊輔、奥の5人もが4/25日からのトレーニング・キャンプ並びに親善試合のために召集された。 当然これによりナビスコに臨むマリノスにとっては確実に相当の戦力ダウンとなってしまう。 しかしこの時点では、呼ばれた彼らはこのあといよいよ日本で開催のW杯に出るわけなんだからしょうがないんだなと思っていた。 彼らも代表で頑張るんだから、 こっちだってなんとかやっていけるかもしれないなと。
(続く・・・)

ちなみにこの試合は負け。 明らかに主力がゴッソリいないことが大きかったみたい。 3月のときにはここで勝って帰ったんだけれど (選手が揃ってたから)。

(Jul.2004)



●2002年4月7日 横浜国際
2002 J1 1stステージ 第5節   横浜F・マリノス vs G大阪


DFとGKの連携とかウチのチームにちょっと問題あったみたいだけど、 まぁ延長Vゴール (by 俊輔) での決着だったようだ。

ところで、 W杯があるせいで (開催スタジアムの準備・工事などのためだと思う) この2002年シーズンはホームとアウェイとの試合の組み方が実に変則的だった。 4/20までにリーグ戦を7試合消化したあと、 カップ戦6試合を経て5月中旬から中断期に入り7月に再開というスケジュールだったのだが、 マリノスの場合リーグ戦はまず開幕戦を3/3に横国でやったあとは3試合続けてアウェイ。 そしてこの第5節の4/7横国のあとは再びアウェイを2試合戦い中断に入るという具合。 他のチームの場合は逆にホーム・ゲームばかりが続けてやってくるところもあったと思われる。
7月以降の再開後も横国をW杯前の状態へ復元 (物々しいあの入場ゲートやスタンド・各施設、 そして芝の養生も?→でもそのわりに夏の間もしや J-popのLiveなんかに使ってたりもしたんじゃないだろうか) する必要があったのでしばらくはホーム・ゲームが三ツ沢や国立 (13節の神戸戦に至ってはなんと熊本でホームゲーム!?? をする始末) で行われ、 再び横浜国際で観戦できるまでには2ndの第2節 (9/7) まで待たねばならなかった・・・。 W杯前には5/9にナビスコ・カップの試合が横国であったけどそれを最後に、 その後実に4ヶ月間ほどもホーム横国では試合を観ることが出来なかったのだ。

ということで、 このあとはアウェーの対広島戦、 磐田戦と連勝して首位に立ち、 最高の形でリーグ中断を迎えることになった。 特に、 磐田戦はスポーツ・バー (今は無き渋谷ワールドスポーツカフェ) で観戦したんだけどすごく盛りあがった。 奥と俊輔が共存するという今からすれば夢のような中盤。 ウィルの2得点と、 俊のCK→ボンバー・ヘッド!(実に爽快) そしてウィルによる3点目が決まったときの磐田の監督の顔が忘れられない(笑)。
(・・・↑というより大阪戦のことさっぱり書いてない・・・「スタジアム観戦した試合だけ」 などと言いながら。)

(Jul.2004)



●2002年3月31日 市原臨海
2002 J1 1stステージ 第4節   市原 vs 横浜F・マリノス


約9,000人の入りだったが、 それでもここ臨海の場合では見かけ上十分に一杯だ (あとは立ち見と称するエリアにどれだけ詰めこむ勘定でJ1スタジアム基準 (?) 15,000に達するのかは知らないけど)。 W杯を控えてのこの時期はどのスタジアムでも観客がじわじわ漸増しているような雰囲気がなんとなくあった。 それでこの年はどの試合でも概ね早めにスタジアム入りした。 ここでもアウェイ側自由席の列に並んで開門を待ってから入場。
もう4節だというのにこの日もまた本来開幕戦で配られる 「Jリーグ・ノート」 をもらえてしまった。 ここまで1試合に1冊ずつでもうこの日で4冊目になった。
試合はウチが3-0と圧勝。 向うのDF (ミリノビッチ) の負傷が響いたとされているようです。

(Jul.2004)



●2002年3月16日 東京
2002 J1 1stステージ 第3節   東京 vs 横浜F・マリノス


やっぱりここには勝てないのか?(この時点では)
先制したのに。

(Jul.2004)



●2002年3月9日 豊田
2002 J1 1stステージ 第2節   名古屋 vs 横浜F・マリノス


W杯には使われないけどすばらしくスゴイ (?) 豊田スタジアム。(アクセス除く)
とにかく開幕戦だけでは今年のマリノスがはたしてどうなのかがよく分からなかったし、 ちょっと心配だった。 ただでさえ、 W杯開催のための中断に入る前にリーグ戦のホーム・ゲームが2試合しかないというような妙なスケジュールだったし、 どうしてもこの時だけは1週空けるのがもどかしくていやだった。 周りからはバカかと言われたが、 (瑞穂にも行ったことはない私だが) わざわざ豊田まで行って来ることにした (ナニ、 神戸よりは近いし)。
大雑把なルートで、 名古屋まで新幹線で行ってそこから地下鉄 (名鉄に直通) に乗換え豊田市駅で降りた。
予めウワサでは聞いていたがそこから歩くと結構な距離を感じる。 小規模の商店街を抜けしばらくまっすぐ進むとスタジアムと同じくらいに立派に思える大きな橋が見えてきて、 更にその向う側 (の右方) にスタジアムがあるのがわかる。 しかしそこからが遠いのだ。 見えているのになかなか目標の橋、 そしてスタジアムが近づいてこないし、 橋自体も歩いて渡るとすごく長い。 陽射しの強い暖かい日だったから3月初めだというのに着くまでには汗ばんでしまった。
やっと着いて中へ入り、 アウェイ側のゴール裏2F席に座った。 そこから眺める内部の風景もまた圧巻。 ピッチが近いのももちろん、 遥か上まで伸びた真っ赤な座席のバック&メイン・スタンドの傾斜のすごいこと。 1Fだって傾斜が大きく見えるのに2Fにいたってはほとんど崖のようだ。
スタジアムだけでなく試合の方も、 ここまで行って来てよかったというものを見て帰ることが出来た。 どんなきっかけだったか覚えていないがマリノスがFKを得た。 しかも我々の方のゴールに向ってのもの。 案の定、 俺王が 「俺に蹴らせろ」 みたいなことを言っていた雰囲気だったが、 無事に俊輔が蹴った (笑)。 それがまた見事に決まって! すんごくうれしかった。 この1点が決勝点になった。
帰りも同じルートで帰った。 観光はナシ。 新幹線のホームできしめんを立ち食いしたけどおいしかったな。

(Jul.2004)



●2002年3月3日 横浜国際
2002 J1 1stステージ 第1節   横浜F・マリノス vs 浦和


やっとの思いでJ1に残留できた昨年度が終わり (W杯開催スタジアムのホームチームとしてのマリノスがJ2へ降格することなくW杯の年を迎えられたことにもまたホッとした。)、 クラブ側がシーズン当初に掲げたように今度は文字通り 「復活」 を旗印にしてのマリノスの新しい1年が始まった。
ニ度と去年と同じ轍を踏むわけにはいかない今年はさすがに1年前とは違って、 シーズン開幕前の補強がなかなか的を得た充実したものになった感じだった。 マリサポ系の掲示板などでもこれはいい、 フロントよくやったという声が上がっていたと思う。 オムさん、 ブリットなどはチームを去った (また、 このあとW杯による中断期間中に石川ナオ、 続いて田中隼磨などが相次いでレンタル移籍して行ってしまう。) が、 ウィル、 奥、 中澤、 清水、 三上、 そして久永などが新たにマリノスの一員になった。

ということで迎えた開幕戦の日。 例年以上の期待と不安を胸に、 また横国へ。
スタメンが発表になると、 中澤、三上、久永、清水、そしてウィルと新しい顔がいきなり5人も名を連ねていた (奥は前年度末、 磐田での出場停止処分の未消化のためいきなり開幕の2試合出られず)。 「知らないヤツばかりだなぁ」 という声もスタンドでは聞かれた。 今まで敵だった何人もの選手たちがマリノスのユニフォームを着てピッチに立っている (やたらと30番台ばかりが多い)。
でもそのユニフォームは、 復活に向けて新たな気持でということなのかトリ・コロールの (あとになってわかることだが) 封印の第1段階で、 シャツから赤色が消えていた (翌2003年にはパンツ、 ソックスも全部濃紺に変わることになる)。 当然当初から評判が悪かった (特にこの年は縦割りに同系2色が並ぶという当時のフロンターレみたいなデザインに急に変わったこともあって)。
この日試合前のセレモニーではカルロス・ゴーン日産社長による始球式 (なんだか地味だった) も行われたけど、 彼から年間順位3位以内という厳しいノルマがマリノスには与えられていた。 今年は大丈夫、 出来るはずだとは思ったけど、 「去年」 を経験したことで正直なかなか疑心暗鬼な部分は拭えなかったのも事実。 NET上サポの間でもこの年のシーズン前半での目下の 「隠れ目標」 は優勝よりもまず数字上 「残留」 を早く決めて安心したいということだったようだ。
試合のほうは早速のウィル(俺王) の得点で勝利。 内容はともかく初戦で結果が出せていいスタートを切れてよかった。
たいしたことじゃあないがこの日の心残りは1つだけです。 この試合までは勝った場合だけ帰りにマッチデイ・プログラムを買うという習慣だったのだが、 帰りには売切れてしまっていた。 そんなことも予測できずにいたとは不覚。 そのためこれよりあとのホームゲームではすべて試合前に買うことにして今に至っています。

(Jul.2004)


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Jul.2004 byま