民家
過去 一流建築家や歴史的建築物を題材としてきたこのコーナーであるが 今回は庶民的な建物「民家」を題材としてみた。
●民家とは 民家は その地方や地区では特有の作り方がある。東北地方には曲り屋に代表されるような作り方があるし 西日本は独自の作り方がある。藩や県 またもっと小さな単位の部落ごとでも異なる。長野盆地の民家と柏原は違うし また妙高以北の地域でもまた違った建て方をする。 それはその土地の生活そのものが違うということであり 生業や気候、産業形態や信仰が違うということでもある。 ●野尻の地域的な位置づけ 長野県は本州の中央に位置する為に、南部の「表日本気候」、中央部の「内陸性気候」、北部の「裏日本気候」と同一県内に3種類の気候がする。 長野盆地は、その地形上夏季の日中の気温が高くなるが、長野から国道18号線を北に向かって移動してくると途中で気温が下がり 野尻周辺では随分過ごしやすくなる。これは 長野盆地が典型的な内陸性気候なのに対し 野尻は裏日本気候のエリアに入るからにほかならない。その境界線は「飯綱山ー高社山」を結んだラインが気候分断線ということなので、国道18号沿いでは牟礼あたりがちょうど境界線上に当たる。この事は、夏季の気温や冬季の積雪量が著しく変化する場所と一致する。 また文化の面においても 北日本と南日本の間に位置し双方の影響を受けている。 現代のように流通が発達する以前の内陸部には 海岸部から運んだ塩や海産物の流通ルートが必ず存在する。野尻は 直江津から関川沿いに南下して野尻を経由し長野盆地に至るルートの途中に位置していた。ちなみに長野盆地は 太平洋からのルートも複数存在している。このことは 人や物の交流が北からのルートと南からのルートが存在することを示している。 江戸時代は人工の増加と共に農業が著しく発達した時代であったが これはこの時代に農業技術が進み、標高600m以上の当時でいう高地でも稲作がやりやすくなった、という事が原因のようである。また 野尻湖周辺の土地は 粘土質で米は育てにくいが良質なものを生産できる地域らしく、それらの諸条件が整った野尻周辺の耕作面積が増大が著しい地域であった。このことは野尻周辺の発展が 江戸時代のころから始まり農業が発達し米があまるようになった現代まで続いた事である。
●民家のプラン解説 棚橋邸を柏原の民家の主要なタイプとして参考にしていく。(図面参照) この地の民家であるから生業は農業である。場所は野尻から飯山に向かう街道筋の一等地に建っている。プランは東西に長く長方形で、屋根は建設当時は茅葺き屋根となっていた。(写真参照) 南側の玄関を入って土間が広がり、その正面北側にダイドコロ 左の西側が馬屋で 右側に一段上がって板の間があり そこからもう一段上がって畳敷きの広間 そして板戸で区切った座敷となり その裏側に奥座敷となっていて、また広間の裏側には寝間があるこの地方の典型的なプランである。 壁があるのは馬屋沿いと床の間のある外壁くらいで それ以外は基本的に開放されていて、部屋の仕切りも障子や板戸によって仕切られている。土間〜広間〜座敷などは基本的には開放して使っているのだろう。 戸や壁による仕切りの他に、床の高さや材質で部屋の格が付けられている。 家の中に入ると土間が広がっている。それは基本的に外部の延長空間で雨天や積雪時に作業できるようにされた場所であった。玄関は閉めずに開放が基本と思われ、外来者は土間たやすく入ることができる。 そこからさらに中に入る場合には、家人の了解が必要だ。土間から上がると畳の部屋となり、その中の広間と座敷は来客を招いた催しなどにも使用しる。その裏には奥座敷や寝間などがあるのだが、奥に行くに従って造りや材質が上等になり 一番格の高い奥座敷などは 床の間などや建具などは一番上等に作られていた。(写真参照) この家は二つの秩序によって創られている。土間状になっている 「ソト」の空間と それから一段上がった床・畳のある「ウチ」の空間、 そして 南側の「オモテ」の空間と 北側の「ウラ」の空間である。 「ソト」は 土間状になっていることからも外部的なところで 各種の作業をするところとなっている公的な空間といえる。 「ウチ」は 板や畳が張ってあり 内部的なところで家族の生活のスペースで私的な空間といえる。床の高さや材質によるヒエラルキーがあるので わかりやすい。よく家のことを「うち」と呼ぶのはこの「ウチ」のことである。 「オモテ」は対外的に見せることの可能な空間で 客人は「ウチ」に上がっても 基本的にこの「オモテ」までしか入ることはできない。各種の催しはこの場所を使うことになる。 「ウラ」は家族の構成員だけが使う空間で対外的には見せないようになっている。 奥座敷・寝間などは家の中で最も内部的・閉鎖的なところである。 現代と最も違うのは入り口周りで 最近の住宅や昔の武家屋敷などは玄関は豪勢に装飾し客を迎えるのであるが この時代の農業の民家は 玄関は簡素で入ってすぐ作業スペースがある。今だったら農作業用の入り口と住居用の入り口二つ造るか 別棟とするのではないだろうか。 日本の民家の部屋は、土間・板の間・床の間・広間・寝間・座敷などの名称があるが、全て床の仕上げや作り方、それにその床に対して立っているのか、座っているのか。寝ているのか といった接し方によって分けられ部屋の名称になっている。 また 床の高さによって 間の格が変わり 土間から始まって 上がり框 板の間 座敷(畳)と上がっていく。人間様はそこまでであるが その後に床の間 そして仏壇や神棚が最高ランクとなる。 現代では 個室が発達し 家族といっても食事以外は部屋の中で籠もることが多くなっているが 日本古来の家には個室は無く家族全員で移動する。先程の「床への接し方」というのは 結局その部屋での行為そのものであり、農作業するときには土間に行き 普段は広間に座っていて 寝るときには寝間にいくという風に使用する。
●野尻の民家が意味しているモノ 棚橋邸におうかがいして驚くのはその凝った創りで 相当なご趣味がおありだったようだ。座敷や奥座敷は特にそうで デザインや材質などかなりのモノが使われている。 これらの造りを可能にしたのは 柏原の農業の発展による裕福さであり 北国街道という交易の動脈に近く 飯山への街道筋にあること また長野盆地という太平洋側と日本海側の両方の文化の影響を受け、明治時代の基幹産業である製糸業が発達した地域に隣接した地域であることから 古い時代から新しい文化を取り入れることにどん欲だったこの地が見事に反映されており、江戸〜明治〜昭和の前半までのこの地の集大成したものといえるのではないだろうか。 |