哀しみの家


端末の前で伏せていた半身を起こし、私はそのまましばらく時計が時を刻む音を聞いていた。
256倍の時間が流れるコムネット。
そこからだと現実世界はまるで時間が止まっているように見える。
それなら現実世界からこの家を眺めたとしたら、おそらく同じように時間が止まって見えるのだろう。
他に聞こえる音とてないひとりぼっちの家で、そんなことをぼんやり考えた。

うちに来てはどうか、と伯母は言う。
「瞬が留学してから私も寂しいのよ。愛ちゃんが来てくれると嬉しいわ。学校には、少し遠くなるけど・・」
母の入院している病院には近いから、と。
微笑みの向こうに心配が見え隠れする伯母から視線を逸らし、窓の外の枯れたひまわりに目をやる。
物理的な距離にいまさらどんな意味があるのだろうか。
私は昔からひとりだったのに。


私が幼い頃、父は事故で亡くなった。
母はそれ以来毎日のように泣いていたが、やがて、おそらくは父の死を忘れるためだったのだろう、
前以上に研究に没頭するようになった。
朝起きる頃はもう母は家を出た後で、テーブルの上にはいつも食事だけが用意されていた。
まだ小さかった私が母の為にできることは、これ以上哀しませないようにすることだけだった。
手のかからないように、心配をさせないように。そして哀しい顔を見せないように。
だから私は何も言わず用意された食事を食べた。広い部屋にたった一人で。

ある朝、私はジャムの瓶を取ろうとして椅子によじ登った。
いつもはテーブルの上においてある瓶が、その日に限って背の高い棚の上にあった。

赤いギンガムチェックの蓋をぴったり閉ざしたその瓶は、父の仕事場から引きとってきたものだった。
父は母の手作りジャムが好きで、瓶に詰めて仕事場にまでそれを持ちこんでいたのだ。
母は父の死のあとも習慣のようにジャムを作りつづけ、父の瓶に詰めた。
でもそうやって作ったジャムを母は決して自分では食べようとはしなかったので、
私は毎朝ジャムをたくさんつけてパンをたべるようになった。
少しでも瓶のジャムが減るように。

私は背伸びして指先で瓶を手繰り寄せた。
両手でしっかりと瓶を挟んでいたが、瓶には作り立てのジャムがいっぱいに詰まっていて、
思った以上に子供の腕には重かった。
底面をこすりながら瓶が棚の縁を離れた途端、まるで下から伸びてきた透明な手がぐいと掴んだように
瓶は私の腕を引っ張りながらまっすぐ床に向かった。
つま先立ちの私は椅子の上でバランスを崩した。

この瓶だけは割ってはいけない。瞬間的にそう思った。
椅子から転げ落ちながら私は必死で落下する瓶を引き寄せて身体でそれをかばった。
床の上でおそるおそる目を開けた時、棚の角で擦った手首からは血が流れ、
頭はどこかに打ってずきずき痛んだが、幸い瓶は割れていなかった。
私は唇をかんで痛みをこらえ、手首の傷を洗って絆創膏を貼った。
涙はでなかった。多分、出さなかったのだろう。
夜になって帰って来た母は、絆創膏に気付かなかった。

いつしか母はジャムを作らなくなった。
でも、あの瓶は食器棚の奥深くしまいこまれたまま、今もそこに眠っている。


私は伯母の申し出を受けることにした。
苦労して言葉を選んで話す伯母に、これ以上気を使わせたくなかったのだ。
パソコンと2台のバーチャライザを荷造りして伯母の家に送った後、
私はしんとしたキッチンで食器棚からあの瓶を取り出した。

あの時私はいったい何を守ろうとしたのだろう。
瓶は鮮やかな赤のギンガムチェックの蓋をぴったりと閉ざし、丸みを帯びた側面が光を屈折させている。
その光にふと、ガラスの中の特別室に横たわる母の横顔を思い出す。

左手首を胸の高さに持ち上げて、手に入れたばかりでまだ慣れないその感触と重みを確かめてみる。
これがあればあるいは守り損ねた物を取り戻せるのだろうか。
緻密な構造が透けて見えるその上面を手のひらで覆う。
・・時計にしては大きすぎる。目立たないようにしなくては。
私は腕にはめたコムコンを袖の中に隠した。

あの日、絆創膏を隠したように。