日常のつぶやき

Appetite

チュンチュン、チュンチュン・・・

ベランダでエサをねだるスズメの声がする。

息子の食べ残したパンくずを撒いてやったのをきっかけに、彼らは毎朝同じ時間に催促に来るようになった。

『可愛いね、チュンチュンがマンマしてるね。』

息子にそう話し掛けながら、私のもうひとつの心はこう囁いていた。

『あれ・・カリカリしてて美味しかったよなぁ・・』

ハッ! 何て事を! あんなに可愛いスズメを見て、何て残酷な事を思い出してしまったんだろう!

・・・今回のお話は『食』にまつわる、ちょっとブラッキーなお話。

そういうお話が苦手な方は、くれぐれもお読みにならないように・・・。

京都の伏見稲荷大社の近辺には、鴨やスズメの焼き鳥を出す店が立ち並ぶ。

私はもともと『肉』というものを好んで食さないので、物心ついてからは食べた記憶が無いが、小さい頃には酒豪の父が酒のつまみに買ったスズメの焼き鳥を何度となく食べたことがある。

『うわっ可哀想!』とか『あんな可愛いスズメを食べるなんて!』などの声が聞こえてきそうだが、よくよく考えてみるとこれは世間にあまり知られていないだけで、その土地の人間にとったら普通の食文化なのだ。

鶏肉を食べるように、キジ肉を食べるように、たまたま『スズメ』を食べるのが習慣だっただけ。

ただ『スズメ』という生き物が『食用』としてよりも『愛玩用』として私達の心に根付いているから、すごく残酷な話に聞こえるだけなのだ。

『残酷』と言えば、この話はどうだろう?

私にはどうしても理解できないことのひとつなのだが・・・

牧場で子供達に『あっ見てごらん。牛さんがいっぱいいるね。可愛いね。ほら、写真撮ってあげようね♪』などと言った直後にバーベキューを楽しめるという感覚・・。

あれは残酷では無いのだろうか?

今、可愛いと言った『牛さん』の仲間が、皮を剥れ、切断され、自分の胃の中に収まろうとしている・・。

私に言わせれば、スズメの焼き鳥を『可哀想』というよりも残酷さは数段上なんだけど・・。

スズメと同じ様なケースとして『ハト』がある。

フランス料理なんかを食べに行くと、たまに『小バトのロースト』なんていうメニューにあたることがある。

ハトを食べるという習慣があまり無い私にとっては、どうしても公園で群れをなしている、あの見慣れた『ハト』の姿が頭にチラついて食べにくい食材である。(何度も言うが、私はもともと肉類が嫌いなので)

しかし歌手のアグネス・チャンさんが何かの番組で『私、日本に来日した頃、無数に飛んでるハトを見て「美味しそう♪」って思ってました(笑)。』と言っていたのを聞いて妙に納得した覚えがある。

確かにそれを子供のときから普通の食材として見て来た人間にとってみれば、群れをなして空を旋回しているハト達はさぞ美味しそうに見えたのだろうな、と・・。

そういえばずっと昔、アフリカから来日したニカウさん(知っていると歳がバレる?・爆)は生卵が食べられないと言って頑なに拒絶し、ムツゴロウさんがもてなしたスキヤキをそのまま食べていたっけ。

そう、みんな自分の脳に『食材』として認識されていないものには、多かれ少なかれ抵抗を感じるものなのだ。

中国に旅行に行った時に、商店街で食用として売られている多種多様な動物を見て、思わず吐き気を覚えた人がいるというのも、それ(犬や猫)を食材として認識した経験がないからだろう。

さらに人間の食欲は時に非情である。

『可愛い♪』と思っているハズのアヒルちゃんを小さな箱に押し込んで、毎日毎日消化できないほどの量の食べ物を与え、肥大させた内臓を取り出して『最高食材のフォアグラよ♪』とのたまう。(私に言わせれば、3大高級食材かなんだか知らないが、フォアグラなんかよりもアンキモ(鮟鱇の肝)の方がずっと美味しい・・とこれは余談だが・・。)

生きたままのエビに酒をふりかけ、泥酔状態の所を火あぶりにする。

ピチャピチャと音をたてて暴れている白魚さんを飲み込んで喉越しを楽しむ。エトセトラ・エトセトラ・・。

『食欲』・・未経験の食材に対しては少なからず抵抗を感じるが、一度それを『美味い!』と認識した途端、さっきまでの抵抗がウソのようにその食材に食らいつく。

『あれは美味しい』という頭があれば、たとえそれが『虫』であろうとも、食欲という欲望は口いっぱいに唾液を満たすのだから・・。

生きる為以外に、『楽しむ』ことを目的に人間は『食べる』。

さぁ、あなたは今日、何を食しますか?・・・

2001/07/11