日常のつぶやき

選択権

今年の正月、2歳7ヶ月の息子を連れて『ガオレンジャー(テレビの戦闘ヒーロー番組)ショー』を見に行った。

元旦の新聞に入っている山のような折込チラシ。

その中の1枚、スーパーのチラシの片隅に『ガオレンジャーがやってくる!』の文字を見つけ、私は俄然意気込んだ。

今まではミニカーや電車のオモチャでしか遊んでいなかった息子だが、最近この戦隊物テレビ番組に興味を示し始めていたので、ぜひとも生で見せてやりたいと思ったのだ。

当日は少し早めに昼食も終えて、1時間も前から特設会場の一番良い席を陣取った。

とはいえ、息子が長い時間ジッとしていられる訳はないので、主人と私が交代で息子を他の売り場へ連れて行って、ショー開催までの時間をつぶした。

初めは観客がまばらだった会場も、ショー開催間近になると、ヒーロー登場を待ちわびる子供達で埋め尽くされてくる。

我が子も、訳がわかっているのかいないのか・・期待と不安(ウチの子は恐がりなので・笑)でいっぱいのとても複雑な表情をしながら、ざわついた会場内をキョロキョロ見渡している。

里帰り中の孫を連れてきたと思われるおじいちゃん&おばあちゃん。

正月くらいゆっくりさせてくれ、とでも言いたげに苦笑いをする父親と、その手を必死で引っ張っている男の子。

一番前の席を取るように子供に大声で指示を出す母親。

とにかくそこにいるみんなが、子供達の輝く瞳に笑顔を浮かべていた。

・・その中に1組の親子がやってきた。

母親は、今日ここでこんなショーがあることを知らずに来たらしく、『ショーが見たい』とグズる子供に、こんな風に怒っていた。

『そんなモノ見なくてもいいでしょ! どうせ偽者が来るだけなんやから。テレビで見てる人と違うよ。に・せ・も・の!!』

子供はそれでも母親の洋服の裾を遠慮がちに引っ張りながら、『見たい』と訴えている。

『うちの子より少しお兄ちゃんかな? 可哀想に・・』

今にも泣き出しそうな男の子を見ながら、私は腹立たしいような情けないような気持ちになった。

確かに子連れで買い物に来るのは大変なことである。

限られた時間で売り場を回りさっさと目的の物を買って帰りたいと頑張っている時に、あれが見たい、これが買いたいとウロチョロする子供にいちいち付き合っていられないのは良くわかる。

でも・・。

今日は1月2日。

お正月のお祝い気分で店内は大賑わいである。

こんな日に幼い子供をスーパーへ連れてきておいて、その子供の夢見る瞳を無視してまでやらなければいけない用事なんてあるのだろうか?

『お年玉価格!』と銘打ったブランド物の福袋を買いあさること?

御節料理に飽きたご主人様のために夕食の買い物をすること?

それこそ、子供に言わせれば『どうでもいいこと』なのではないだろうか??

それに・・

(ここは大都会・東京ではないので)確かにテレビに出演している俳優さんが来る訳ではないから、ショーの出演者は偽者に違いはないだろう。

でも、子供が見たいのは俳優さんの素顔なんかじゃなくて、あくまでも変身した『ガオレンジャー』なのだから、中身が誰であろうと関係ないことくらい、母親ならわかってやればいいのに・・と、もどかしい思いがした。

あの子にとってみれば、今日ここにやって来る彼らこそが、憧れのヒーローなのに!・・と。

そうやって溜め息混じりにその親子を見ている時、もう1組の親子のやりとりが聞こえてきた。

若い父親と息子、それにおばあちゃんの姿が見える。(たぶんママも一緒だったと思うが・・)

この子もまた、我が子よりも少し年上だろうか? おばあちゃんにお年玉がわりに買ってもらったと思われるオモチャを抱きかかえながらうつむいていた。

父親はその我が子に向ってこう宥めている。

『あと10分くらいでガオレンジャー見れるから・・。オモチャはいつでも遊べるけど、ガオレンジャーは今日しか会えへんねんで!』

早く家に帰ってお年玉のオモチャで遊びたい息子と、せっかく来たのだからショーを見て帰った方がいいと説得する父親・・。

何だか失笑してしまうくらい、父親の顔が残念そうだったのが印象的だった。

『子供に見せてやりたい』という気持ちはもちろんだが、この父親は自分自身も少しショーを楽しみにしていたのだろうなぁと思うと、何だか少し微笑ましく思えた。

あのパパだったら、ショーを見て帰った後、子供と一緒にガオレンジャー談義に花を咲かせてくれるだろう。

ガオレンジャーになりきる息子の前で、見事に悪役を演じてくれるに違いない。

『もしも選べるのなら、こっちの親の子供として生まれたいよなぁ・・』

私の脳裏にはそんな言葉が浮かんでいた。

・・子供は自分の親を選べない。

でも、もし子供に『親を選ぶ権利』があるとしたら、私は大好きなガオレンジャーを『にせものよっ!』と怒る親よりも、『一緒に見ようよ』と誘ってくれる親を選ぶだろう。

雑踏にまみれ、結局2組の親子がショーを見たかどうかはわからなかったが、私の心にはこんな疑問が残った。

『ウチの子は、自分の両親が私達で良かったと思ってくれるだろうか』・・と。

・・私には父親に遊んでもらった記憶が無い。

こんな事を聞いたら、父はショックを受けるかも知れないが、事実、私には父と笑いながら遊んだ記憶というのが無いのだ。

もちろん家族で遊びに行ったことはある。

でも私の父親はいつも私と『遊んでやっている』という意識しかなかったんだろうと思う。決して『一緒に遊ぶ』という気持ちでは無かったのだろうと・・。

私の記憶の中の父親は、いつも机に向かい仕事をしていた。

自営業でいつも家にいた父。

サラリーマンの父親を持つ家庭の父子よりは会話をする機会も多いだろうと思われがちだが、私と父は面と向って話をすることなどほとんど無かった。

幸い、母親がその寂しさを感じさせないほど子供のことを見ていてくれる人だったので、私も兄もグレることなく育ったが、思春期の頃には、何かの拍子に『父と遊べなかった』という不満が頭をもたげて来たものだった。

今ならそれが父の不器用さゆえの表現で、決して愛情不足からくるものではないとわかるのだが、この頃の不満はひとつのトラウマとなって私の中に残った。

そして自分が結婚を考える歳になったとき、そのトラウマは、自分が『家族』として選ぶことの出来る相手=夫には絶対に『愛情を持って子供と接することが出来る相手』を選ばなければいけないという思いに変わっていた。(もちろんそんな面ばかりでダンナ様を探していた訳ではないが・・)

そして・・。

私は結婚し母親になった。

でも私が『子供の父親』として選んだ人・・彼には父親がいなかった。

彼と結婚する時に、トラウマを持った私にはその事が一番の心配事だった。

『父親を知らない人が、父親という存在になれるのだろうか?』と・・。

でもいざ父親になった彼は、私の心配など一掃してくれるほどの良きパパになった。

もちろん、これからどんどん成長していく息子にとって、彼が本当に『良き父親』であるのかどうかはわからない。

でもこの人なら、きっと一生懸命に子供の心と対話をし、我が子の声に耳を傾けつづけてくれるだろうと思える。

今のところ『良き父親』というよりは『良き兄キ』として、日夜、兄弟げんかに励んでいる彼ではあるが・・(笑)。

いつか息子が大きくなった時、彼はこう思ってくれるだろうか?

『俺はこの夫婦の子供で良かった』・・と。

『仕方が無いなぁ。次に産まれて来る時も、親父とおふくろを選んでやるよ。』・・と。(笑)

息子の心の片隅にそんな言葉が芽生えてくれる日を夢見て、私は今日も頑張ろうと思っている。

私が自分で『家族』として選択した『夫』とともに・・。

2002/05/09