日常のつぶやき

宣言効果

祇園祭の山鉾巡行が行われた。

京都では毎年この前後に「梅雨明け宣言」が出る。

ところがこの宣言が発表されたにもかかわらず、雨が降り出すということがある。

気象庁にとっては、あまり嬉しくない事例であろうに、これが数年に一度の珍事という訳ではなくて、むしろ毎年のように繰り返されている事例であるということに、私は一種の滑稽さを覚える。

別にわざわざ宣言なんてしなくても、雨が少なくなればそろそろ梅雨明けだ、と思っておけばいいようなものを、何故ご丁寧に「宣言」するのだろう?

確かに「梅雨明け宣言」というものを聞くと、なんかホッとするという気持ちもわからないではないが、その後に雨が降る事によって、せっかくの晴れ晴れした気持ちに水をさされて、かえって嫌な気になるのは私だけだろうか?

最初から「宣言」なんて無かったら、「あぁまだ梅雨は明けてなかったのか」と残念に思うだけで済むのに、宣言された事によって「なんや! 梅雨明けしたって言うたやんか!」という怒りの感情が出て来ると思うのだが・・・。

日本には元々「四季」があって、それぞれに「立春・立夏・立秋・立冬」という日が設けられている。

これも「はい!今日から春ですよ」とか「夏になりますよ」とか宣言しているのと同じだが、立春の次の日に雪が降ったとしても、誰も「もう春になったって言ったのに!」と怒ったりはしないような気がする。

「今日が立春だから、もうそろそろ暖かくなるんだろうな」程度にしか感じないのではないだろうか。

それならいっそ、「梅雨入り」も「梅雨明け」も何月何日かに設定してしまえば良いのに。

「今年の梅雨明けは平年よりも1日遅かったですねぇ」などというコメントが出るのなら、いっそその「平年並み」の日を法律か何かで「梅雨入りの日」「梅雨明けの日」に決定してしまえば、気象庁の皆さんも毎年ビクビクしながら空を眺めないでも良くなると思うのだが・・・。

梅雨入り、梅雨明けだけでなく、わざわざ人に宣言してもらわなくても良いと思う「宣言」は他にもある。

「景気回復宣言」というヤツである。

経済企画庁のお偉方が発表するコレは、「やや上向き加減である」とか「明るい兆しが見え始めた」などという言い方で発表されるのだが、私にはこれが何のために発表されるのかが理解しがたい。

例えば「景気が少し上向き加減であると発表されました」というニュースを聞いたからといって、我が家の台所事情は先月と全く変わらないわけだし、「あぁ景気が良くなってきたのだから、今日は特別にぶ厚いステーキを買おう!」ということにはならないだろう。

発表から何日かを経て、一般家庭にも景気回復の波がやってくるのだと言われるかも知れないが、ここ数年、我が家にはそんな波は訪れた形跡がない。

景気なんてものは、我が家という国の中で、私という大蔵大臣が「今月は景気が良いぞ」とか「今月はもう少し切り詰めよう」とか思うときに良し悪しの判断をすれば良いだけで、人から宣言されてもちっとも嬉しくないことだと思うのだ。

それに発表する人が政治家の先生であるというところにも問題点がある。

豪邸に住み、庶民の生活など体験したこともないような生活を送っている先生方に宣言されるより、どこかの商店街の魚屋のオッチャンとか、八百屋のオバチャンとかが「今年は去年より景気が良いよ!」と言ってくれるほうが、よっぽどが真実味があるのではないだろうか?

何を見て「景気回復宣言」をするのか、その基準が私にはわからないのだ。

 

どんな宣言にしても、それを発表することによって、何らかの効果があるのだろうか?

それが絶対に間違いのない事の発表ならともかく、当てにならないモノであるのに、誰かありがたく聞いている人がいるのだろうか?

疑り深い性格の私には謎である。

2000/07/21