日常のつぶやき

円周率=およそ3?

この前パパが朝刊を読みながら驚愕の表情でこう言った。

「なぁ知ってる? 円周率ってこれから3.14じゃないんやって。」

「じゃぁいくつになるの?」

「およそ3・・・」

それは、学校で教わる事柄が根底から変えられるという記事だった。

円周率の計算は小数点第一位まで、つまり3.1になるのだそうだ。

他にも台形の面積を求める公式が削除されたり、○○算の中の一部が改正されたりするらしい。

英語でも、日常良く目にする単語は必須英単語から外されると書いてあった。

例えば「A」を例にとると「Animal」とか「April」とかである。

年間の授業時間も小学校6年間で約1000時間減らされるらしい。

その分を余暇の時間として、親とのふれ合いや友達との遊びの時間にして欲しいというのが「お国」の狙いらしいが、さぁどうなんだろう?

巷では共働きの方が多くなってきているし、子供が週休2日でも親は出勤って家庭は多いのではないのだろうか。

それなのに、この上毎日の帰宅時間まで早められて、親は心から喜んで子供とふれ合えるのだろうか。

我が家のパパは、現在月に1〜2度の土曜日出勤がある。

息子が小学校に上がる頃にはもう完全週休二日制が導入されているから、会社がこのまま土曜出勤を続ければ、その日に遊ぶ事は不可能。

ではその日はどうするのかと言えば、友達とテレビゲーム(その時代に有るかどうかは別として)、若しくはゴロ寝で過ごすというのが妥当な線なのではないか?

低学年の頃ならママと遊ぶ機会もあるだろうが、まさか高学年になってまでママと一緒という訳はないだろう。

ウチは塾へ行かす事をあまり望んでいないけれど、塾通いの子が増えるのも目に見えていると思うのだけれど・・・。

まぁ増えた余暇を有意義に使える子供(親)もいるだろうから一概には言えないけれど、私はあまり嬉しく思っていない。

確かに私が学校に行って学んだ事の中にも「これは生きていく上で必要ないんじゃないか?」と思う物は多かったから、学習内容を見直して要らない時間を削除するのには大賛成である。

でもその削除によって余ってきた時間を、他の大事な事を教える時間として使おうとしないのは何故なんだろう?

とてもローカルな話題になるが、某国営放送の「ひとりでできるもん」を見ていると主人公の女の子が「なんでこういう事を学校で教えてくれないんだろう?」と思うような貴重な体験をする場面がある。

盲導犬の訓練所へ行ったり、車椅子の大変さを学んだり・・・。

なかなか個人ではそういう体験をする事が出来ないのだから、学校の課外授業として小さい時にあぁいう事を学んでいたら、もっと優しい心のオトナが増えるんじゃないかと思うのだ。

私が子供の時には生徒数もクラスの数も相当なものだったから、そういう体験を学校側が主催するのは難しかったかもしれないが、今は少子化の影響で1クラスに数えるくらいの子供しかいないのだから出来そうなものである。

これは素人考えで、実際にどの位のリスクを背負うのか知らないから言える事だけれど、ただ単に授業数を減らしても、それが良い方向に進むとはどうしても思えないのである。

今、学校で教えられている事には、私の習ったものとは違う事も多い。

「王様」は「おおさま」だったし(今は「おうさま」)、近畿は「2府4県」だった(今は「2府5県」)。

歴史によって日本最古のお金も変わったし、地名も変わった。

学校なんて、結局試験に合格する為に記憶する力を養う所でしか無いのだろうか?

人間が生きていく上で本当に必要な事は教えてもらえないのだろうか?

親になって自分の子供を「学校」という所へ行かせる立場になった今、それが大きな「?」なのである。

そういえば昔、何かの番組でお爺さんが高校生が持っている世界地図を見て驚いた場面でこんな替え歌が流れてきた。

♪首都の名前はヤンゴン ボクの地図ではラングーン 国の名前はミャンマーだー ビルマと言わずにミャンマーだー♪

「ヤンボーマーボー天気予報」のフレーズにのせて・・・。

2000/04/21