日常のつぶやき

赤信号

・・・赤信号は止まれ! 黄色も止まれ! 青信号は進めやでぇ!!・・・

もうじき2歳半になる息子は最近、信号を見るたびに私にこう教えてくれる。

保育園で習ったのだろう。

『スゴイなぁ! そんな難しいこと知ってるの? エラ〜イ!!』

と言ってやると、とても誇らしげな顔をする。

『スゴイやろ! かじゅまくん知ってるんやでぇ!!』

『すごーいっ!』

こんな会話をしながら、ふたりで手をつないで待っている赤信号の横断歩道。

出来れば私は、その横を平然と渡っていく人たちの姿を息子に見せないように消してしまいたい。

ひとり、またひとり・・。

キョロキョロとあたりを見渡して、そそくさと走って渡っていく人はまだいい。

でも、待っている私達をまるで邪魔者のようによけて、『何が悪いんだ?』とばかりに渡っていく人達・・。

あの人達のことを、私はどうやって息子に教えてあげればいいんだろう?

『あのお兄ちゃんアカンなぁ。かじゅまくんみたいにちゃんと待ってなアカンなぁ。』

とでも言えばいいのだろうか?

私は別に『正義の味方』を気取るつもりは無いし、渡っていく人達を全て『悪者』だとは思っていない。

何かの事情で急いでいる人もいるだろうし、考え事をしていて信号をうっかり見落としてしまった人だっているだろう。

でも、せめて小さな子供の前では、その子たちのお手本になるような行動をして欲しいなぁと思うのだが・・。

先日、自分の育児に対してある疑問を持った。

モラルを守る、ルールを守る。

そんな当たり前だと思っていたシツケは、これからの世の中を生きていく息子には相応しくないのではないか? と。

例えば『赤信号でも、車が来てなかったら臨機応変に渡ればいいんやで』と教える方が、今の時代を生きていくために必要な教え方なんじゃないだろうか? と・・。

この歳まで生きてくると、真面目に生きている事が馬鹿馬鹿しくなるような『矛盾』にいっぱい遭遇する。

一生懸命にやっている私よりも、何となくいい加減にやっている人の方が、実は世の中を上手く生きているんじゃないんだろうか? と投げやりな気持ちになることもあった。

それなら息子には、真面目に生きるだけが能じゃないんだと教えて、楽な道へ誘ってやるほうがいいんじゃないか?

あの時の私はそんな懸念を抱くようになっていたのだ。

でも嫌な事を避けて、楽な方へ楽な方へと逃げることを覚えてしまったら、本当に逃げ道の無いような問題にぶつかった時に対処できないオトナになってしまうだろう。

だったら、私にできることはやっぱり一番正しいことを教えること・・そしてそれをふまえてサボったり横着をする知恵も必要なんだ、と教えてやることだと、今は思っている。

育児・・私にとっての育児は、ちょうど『種まき』みたいなものかな? と思う。

丁寧に耕した栄養いっぱいの土壌に、『大きく育て』と願いを込めて種をまく。

その種がやがて芽を出したら、綺麗な花を咲かせるように、大きな実を付けるように・・と世話をする。

虫がついたら駆除してやる。

暖かいお日様をいっぱいに浴びさせて力を与えてやる。

病気の葉っぱがあったら栄養剤を与えて元気にしてやる。

そんな風に、息子の成長を見守ってやるのが『育児』なのかな?と。

でもどんなに必死に育てても、結局、その種の生命力が弱ければ育たないし、育て方が間違っていれば植物は腐ってダメになってしまう。

育児だってそう。

必死にシツケをしたって、理不尽なことをガミガミ言っていたり、その子に聞く意思が無ければ元の木阿弥。

可愛い可愛いと栄養を与えすぎても、結局その子の為にはならない。

適切な栄養や水を与え、過保護にならない程度の愛情をそそぎながら、その種の生命力を信じて見守っていくこと。

そしてその種が、見事な花を咲かせ立派な実をつけるのを見られたら、それが『親』として最大の喜びになるんだろうなぁ・・と。

子供はいつか自分の意志と判断で何でも出来るようになる。

そうなった時、その判断の根底に私や夫のシツケ(教え)が生きていればいいなぁと思う。

『赤信号は止まれ!』

そんな簡単なルールを守ることさえも出来なくなってしまったオトナ達が、誇らしげに信号を守って立ち止まっている息子のこの小さな

輝く瞳を見て、何か感じてくれたらいいと、私は切実に願っている・・。

2002/02/08