ある偉大なテキストに向けて (2003.2.22)
たった今、名著を読み終えたばかりだ。
まさに今、その本を閉じたばかりなので、かなり興奮している。
ここ数年来、いろいろなことに雑然と過ごしてきたせいか、名著と言えるべき本に手をつけなかった。巡り合っていなかっただけかもしれないのだが、本人に真剣にそれを追い求める気がなかったというのがそのほぼ正確な理由だろう。
とまれ、私は、ふとあるきっかけを許に購入に至った薄い文庫本を開き、すぐにその虜となった。私は重度の感激屋であるが(そのかわり、興味のないことに関してはからきしだ)、その本の序章とでもなるべき小さなテキスト、それをほんの数行読み進めたところで、感激にわくわくしてしまった。私はそれ相応に本を読み、前日もつい一冊のつもりが5冊読んでしまったくらいに本は読む人間ではあるが、本当にわくわくし、この本を読まねばならない、この本の内容がいかに深遠で難解で、自分の手にはいささか余る代物だったとしても、これだけは必ず読み通さねばならないと思ったようなものは、本当に今まで数えるほどしかないし、それは数年に一度、現れるか現れないかの邂逅である。
そのような本に、今いささか勉強熱の数年ぶりに高まっている時期だからとはいえ、よもや遭えるものとは思わなかったのである。ざわざわとした喫茶店で、コーヒーと昔ながらのチキンピラフを目の前にしながら、私はこの事実が非常に信じがたく、かつ大変に歓喜せざるを得ないことだった。
その本は、その日気に入りの小さな中国茶館でのボサノヴァを基調としたライブを終え、本屋であれやこれやとその様々な表紙に浮き立つような心を抱えてくるくると歩き回っていた後に訪れた、幸福であった。少しか弱い感のあるそのボサノヴァは、私に肩の力を抜くようやわらかく身体と気持ちを緩めてくれるものではあったが、ここのところ駆り立てるように何かをしたがっている私には断然弱かった。心地よくはあった、だがアトラクティブ(魅力的)というほどでもない。
やわらげる、少し弱い音楽だけが今この世に流布しているのだろうか、人の心を捉えているのだろうか。だとしたら、なんて音楽とは弱弱しくなってしまったのか、丁度現在私がもっとも有望だと感じている新興のバンドのことも重ね合わせながらそう考えていた、そのときだった。
序章は、まるで思想書のように、読み取るためにまた数行戻り、自分の知識の中の思想家を探らせた。それでいて難解ではなかった。読み解くには何度か同じ言葉を捉えなければならなかったが、それが頭のどこかにはまりだすと、なんとも自由に、魅力的に言葉は語りかけてくるのだった。気のせいか、それは私がかつて頭を悩ませても理解したかったベルクソンの思想の潮流に、どこかにていなくもなかった。思わずそれを重ね合わせながら(無論理解しきれもしなかった私のそれは亜流どころか駄作にもならないが)、私はその生き生きと、今にもその言葉の生命に溢れ出しそうに力強い言葉の数々を、畏敬と、今までにない、久しぶりに体験する歓びに完全に身を浸しながら呼んだ。
そのテキストのなんと力強く、また生命に溢れ、そうして真の意味でアトラクティブだったことだろう!!ここ数年来、本を読みながら、こんな自分の感性をも遥かに凌駕し得る、そんな歓びに身を任せられたことはなかった。
その偶然に訪れた幸運に、私は感謝しながら、夢中で読み進めた。「官能的な音楽」!!なんて素晴らしい言葉だろう。私はこんな言葉を現在のちゃちな音楽評論の中で耳にしたことはない。「偉大とは単純であること」。最近のシンプル云々にあるような安易な解決法(というのも、考えることすら放棄している人間が近頃『シンプル』という言葉を近頃やたらめったら使いたがることだが)をぺしゃんこにしそうなほど、なんと重みと鍛錬の上に立っている言葉か!!
その思想の熟練された確信にも私は魅了されたが、その著者が次に取り上げている重大な音楽家がバッハであり、次はベートーヴェンであることにも大いに歓ばされた。何故なら、私がかねてからクラシックの分野で最も好きなのはバッハであるし、ではバッハ以外にするならまず誰を、というならベートーヴェンだからだ。その序章に引き続くバッハ、ベートーヴェンの流れは、私を有頂天にさせた。
中でも序章からバッハの章に移った時はあまりの嬉しさのあまり、じっと座って読んでいることはできないくらいだった。あまりに嬉しくて、私は首を捻ってみたり、コーヒーカップを何度も意味もなく持ち上げてみたり、手を膝からテーブルの上に上げてみたり、とかく落ち着かない態度だった。嬉しさのあまり、つい目と感情が先走って大切な文章を軽々と読み飛ばしてしまおうとするのを、私は何度か懸命の努力を持って、押し留めたりしなければならなかった。バッハに対する最も美しい考察の部分についてなどは、もう本来ならば本を持ったまま右に左にあれこれ歩き回りたいのに、それをぐっと抑えるために片手を握りこみ、掌に伸ばした爪跡がつくくらいだった。
読み進めることが歓喜であり、その歓喜がまた新たな感動を生むという、本を読むということ、思想を読むということにとって、最も素晴らしい厚遇を、私は体験することになったのである。
家に帰っても、真っ先にその本を開くことから始めた。
ここ数年、本などだらけて読むものだったというのに、ベッドの上で読むことがふさわしいこととは考えられず、背もたれのない木の椅子に腰掛け、どうにも興奮してせわしなく読んだ。話がベートーヴェンからワーグナーに移り、現代の音楽との新の断絶というような文章を読み、そうしてその音楽に対する真の態度というものを読み進めていくうちに、私は今まで、自分が無意識に、あるいは意識的に行ってきたその音楽への態度のいくつかが、誤りではないことを知った。それは哀れな「音楽なき」時代に生きる自分への、恩寵のような指針の言葉で、そうして偉大な音楽家である著者から、どうして人は音楽に無関心ではいられないのか、そうしたものを、漠然ながらも、何か微量ながらも、貰い受けたような気がした。
そうして、不完全ながらも一通り読み終えてしまった今は、少し後悔している。
このような重要で貴重で、かつ素晴らしいテキストは、こんなに一気に、やっつけ仕事のように読み終えてしまってはいけなかったのではないだろうか、と。
だが、ここ数年、これだけの力を持って、これだけのテーマを扱ったものを読み終えさせようと思わせるテキストなどなかったことを考えると、これは非常に、幸運なものだけがもち得る、傲慢かもしれない。だとしたら、なんと身に余るほどの素晴らしい傲慢だろうか。
今、私は非常に天狗になっている。ナルシスティックですらあるかもしれない。こんな体験をして、自分を少しでも幸運なものだと思わぬことの方が無理だからである。
だから今度はもっと少しずつ、ほんの数行、ほんの数行ずつ、謙虚な気持ちでこのテキストを開いては閉じ、開いては閉じして、わずかずつ、その真意を理解していこうと思う。さしあたっては、仕事用のカバンに放り込むのはどうだろう。切り売りして読むには勿体ない極上のテキストだが、もし時間にかまけて、このテキストを書棚のどこかに放り込んでおくとしたら、そちらの方がよほど重大な損失だ。
そんな訳で、他人には何のことやらまったくわからぬ、自己満足極まりないテキストを、その直後の感動とともに記してみた。音楽など全くの門外漢で、実家を出てからというものクラシックなど聴いてもいない(なぜならそれらは両親のものだったからだ)うえ、テキストに出てきた曲ばかりか、その作曲家の曲が一体どのようなものであるかすら、私は殆ど知らぬものも多かったというのに。そんな人間が、ある日軽はずみにろくに理解もしないで感激してしまったからといって、それが一体何になるとういうのだろう。
だが、逆に、まったくの音楽の門外漢であり、レベルの低い「聴衆」をしてすら、それだけの感動を招くものが、この本にはあったということだ。それは、とりもなおさず、その本の根底を流れる、音楽への尽きぬ強い愛情と、それからその真摯な音楽への態度=思想と、その普遍性を裏付けるものではなかったのだろうか。
ともかく、私が音楽に関して、正真正銘の門外漢であり、そして、この本がその人間をも感動させる名著であったということにまず間違いはない。
その本の名前は「音と言葉」。著者はフルトヴェングラー、かつてドイツでその名演奏を称えられた、偉大な指揮者である。