我が子について思うこと

 人生の中でいろいろな体験をするが、苦しみと喜び、不安と希望といった全く反対の気持ちを同時に味わえる出来事が、妊娠、出産そして育児だと思う。この大きな事件が突然私にもやってきた。到底信じられない現実。なんとも手放しには喜べない不安ばかりが心を占めるという風。
 「胎内に子が宿る」という感覚は、知識として得られる架空の世界とは全く異質なものである。見たり聞いたりという体験よりもっともっと身近でありながらも、それまで一度も経験したことのないもの。私にはこのお腹の中の怪物が本当に近い将来「人間」になるとは信じられなかった。しばしば母性の象徴のように、胎動を感じる母親が子供を心からいとおしく思う、ということが語られるが、私にとってお腹をボコボコとけっとばすは、映画の「エイリアン」としか感じられなかった。だから母性本能などはなく、自分の意志でしか母親にはなれないものだと今は思う。
 子を持つということで変化する割合はやはり女性の方が男性より大きいように思う。特に母親専業で自分の乳で育てている場合はさらなり。けれどもどう見ても私に似ている奇妙な生き物が、図々しくも私の心の中で(夫に対する気持ちよりも?)幅を利かせるなんてことは、出産と子育てを体験するまでは想像できなかった。しかし我が子は無条件にかわいいとは言い切れないところがある。この小さな存在は、しばしば私にとって言わば憎たらしい小悪魔なることも事実である。赤ん坊を相手に、大人に対するような喧嘩をしたくなることもある。しかし彼の対応はまちまち。ある時は余計に私のカンにさわることをキャーキャー叫びながらするし、ある時は私のことなど完全に無視の構えだ。親の私は彼を自分の支配下に置こうと努力するのだが、彼一才四ヶ月にしてすでに不可能となってしまった。腕力や握力でさえすでに負けているような気もする。そんな時、「エレフォン」(S・バトラー著)から来たのなら、もっと従順になるよう教えられ、親の横暴(?)に耐えるよう覚悟している筈。しかし実際は彼自身が横暴で生意気で、我侭なのだ。彼は日一日と自分の意志で新しい世界をつくっている。親の私にとって彼を育てるなんてことはほとんど不可能なことで、ただ一日一日彼とつき合うのが精一杯で、気がついてみると生まれたときよりずいぶんと大きくなった。私はただ疲れて時々彼と離れてゆっくり安眠できれば…と願うだけである。
 ところで、まだ「ワンワン」や「ブーブー」といった単純な単語しか使えない彼は、自分の意志を「からだ」で表現し要求する。「ことば」で理解することに慣れてしまった今、彼を見ていると「ことば」の役割は人間の表現手段の一部分でしかないことがよくわかる。彼と私の「きもち」が一つに結びつき理解し合える時が一番幸福である。しかしほとんどの場合は、全く彼の「きもち」を感じとることが出来ず、彼はイライラし、私はノイローゼ状態になる。本当に彼が自分の子なのかと疑ってみたくなり、私の子ならもっと素直な筈なのに…と思ったことも一度や二度ではない。今は早く言い聞かせたり、話し合ったり出来るようになりたいというのが本音である。
 よく言われるように子育てというのは自分自身を改めて知る鏡であり、育児書などのマニュアル通りに子供と接しようとしても、彼と上手くすることは決して出来ない。しばしばお互いの関係は悪化するのだが、実際は子供の方が大人びていて向こうから和解を求めてくる寛容さがあるからありがたい。どう育てようといずれ子供も大人になる。これから何十年もつき合わねばと考えるとマイペースで肩のこらないつき合い方が一番だと思うようにしている。

95英米文学手帖から