日英のシドニー・オリンピック
    
大活躍のイギリス選手団
 20世紀最後のシドニー・オリンピックも10月1日にすべての日程を終了して,今はその余韻だけが残っている。日本のメディアも連日日本選手の活躍を中心に報道合戦を繰り広げた。日本人である以上,日本人選手が活躍するところを見たいのは当たり前で,テレビでも日本がメダルを取れそうな注目競技(あるいは下馬評には上がっていなかったが,予想外に活躍した競技)を中心にプログラムを組む。日本以外の選手では,やはり陸上,水泳などの有名選手の活躍にスポットが当てられ,多くの放映時間が割かれる。アメリカのモーリス・グリーン,マイケル・ジョンソン,マリオン・ジョーンズ,オーストラリアのキャシー・フリーマン,イアン・ソープなどの映像は見飽きるくらい流された。
 ひるがえって「イギリス」はどうか。実はイギリスはシドニー大会で大躍進した。前回のアトランタでは金メダルがわずか1個に終わり,あまりの不振ぶりに政治問題化さえしたが,今回は開会式の翌日に,自転車の男子1000mタイムトライアルでジェイソン・ケリー選手が五輪新記録で最初の金メダルを獲得すると一気に勢いづき,最終的に金メダル11個を獲得した。これは,日本の金メダル5個を大きく上回り,同じ欧州のスポーツ大国ドイツ,フランス,イタリア等には及ばないものの,金メダルランクで全体の10位に入っている。イギリスの人々も大いに溜飲を下げたに違いない。
    
日本のテレビでは聞けなかった英国国歌
 このような「大活躍」にもかかわらず,私の知る限り日本のテレビでは,ユニオン・ジャックが掲揚され,英国国歌が流れる場面には出会わなかった(もしかしたら,後述する陸上男子3段跳びの表彰式の模様は放映されたかもしれないが)。オリンピック期間中,アメリカやオーストラリアの国歌は何度も聞く機会があったのに…。これは,日本での注目競技とイギリスが強い競技が全く異なること,またイギリスが勝った競技がどちらかというとテレビ受けしない地味な競技であったことに原因がある。
 イギリスの金メダル11個の内訳を見ると,陸上で2個(男子3段跳び,女子7種競技),ボートで2個(男子かじなしフォアとエイト),ボクシングで1個(スーパーヘビー級),ヨットで3個(男子フィン級,女子ヨーロッパ級,共通レーザー級),自転車で1個(男子1000mタイムトライアル),女子近代5種で1個,射撃で1個(男子クレー・ダブルトラップ)となる。どうです,日本では注目してもらえそうもない競技ばかりでしょう。でも,イギリスの金メダリストは,日本ではテレビでの注目度こそ低かったものの,新聞にはその偉業を称える記事が掲載された人もいたのである。

朝日新聞「五輪の顔」に載った英国人金メダリスト
 オリンピック期間中,朝日新聞のオリンピック面には「五輪の顔」として,毎日1人ずつ「歴史」に名を刻むべき選手が紹介された。この欄で紹介されたイギリス人選手は2人である。

スティーブン・レッドグレーブ(ボートかじなしフォア金メダリスト 9月24日付記事)
 日本での知名度は決して高くないが,イギリスでは今世紀最高のオリンピック選手と称えられるレッドグレーブ(38歳)は,シドニーで1984年ロサンゼルス大会以来5大会連続の金メダルを獲得した。これがどんなにすごいことかは,長いオリンピックの歴史を見ても,5大会連続の金メダリストが彼を含めて世界に3人しかいないことでも明らかである。当然のことながら快挙達成後の母国イギリスの興奮はものすごく,試合後レッドグレーブを含むかじなしフォアの選手はテレビ出演でも引っ張りだこだったようである。BBCニュースのHPにも, "Redgrave's golden glory","Legend Redgrave calls it a day"という派手な見出しで,彼の経歴・エピソード,決勝戦の試合経過等について長大な記事が掲載された。2位イタリアとの差が僅か0秒38というのも一層勝利のドラマを劇的なものにした。
 朝日新聞の記事では,彼の糖尿病との闘病にも触れられている。ここ4年間は,医者でもある夫人が彼をあらゆる面から献身的に支えている。イギリスを代表するオリンピック選手が,地味なボート競技の選手というのがいかにもイギリスらしいところだ。レッドグレーブはアテネで6大会連続の金メダルを狙う気持ちがあるらしい。イギリスが誇る世紀の鉄人の健闘を祈るばかりである。

ジョナサン・エドワーズ(男子3段跳び金メダリスト 9月26日付記事)
 3段跳びの世界記録保持者ジョナサン・エドワーズには悲運のアスリートといった影がつきまとう。1995年の世界選手権では18m29cmの驚異的な世界記録を打ち立てながら,96年のアトランタ・オリンピックと97年の世界選手権では銀メダルにとどまり,99年の世界選手権では3位という屈辱を味わう。敬虔なクリスチャンであり,家族との時間をとりわけ大切にするエドワーズ(何だか映画「炎のランナー」主人公の1人である宣教師兼ランナーのエリック・リデルを思い出してしまう)は,99年選手権の後,シドニー・オリンピックに向けた英国チームの海外での合宿参加を取りやめ,自宅のすぐ近くで練習を積んだという。金メダルを決めた跳躍の記録は17m71cm。彼自身の世界記録には遠く及ばないが,1988年のソウル・オリンピック以来4度目の挑戦で念願の金メダルを獲得した。3度目の挑戦でついに金メダルを得た日本柔道の田村亮子選手の場合と同様,この結果に心からほっとし,「よかった,よかった。」と祝福したイギリス人は多いはずだ。日本のテレビではBSの生中継を除くとほとんど放映されなかっただけに,感動的な記事に仕立てた朝日新聞記者に拍手を送りたい。

日英対決
 シドニー・オリンピックで日英対決がクローズ・アップされた場面はほとんどなかった。そもそも日本とイギリスでは,得意競技も人気競技も違うから,同じ土俵で日英の選手が火花を散らす場面は考えにくいのである。
 その中で,唯一日英の選手がメダルをかけて争った場面は,大会も終わりに近づいた閉会式2日前のテコンドー女子67キロ級3位決定戦である。銅メダルを獲得して一躍人気者になった日本の岡本依子選手とイギリスのサラ・スティーブンソン選手の「死闘」をテレビで見た人も多かろう。29歳とベテランの岡本選手に対してイギリスのスティーブンソン選手は若干17歳。岡本選手の技がスティーブンソン選手の若さを僅かに上回ったということだろう。これが金メダルを争う決勝戦だったらもっと面白かったのだが。
 柔道はイギリスでも人気があるだけに,BBCニュースでもイギリス人選手の動静がかなり詳しく報道されていた。それに伴い,顔写真こそ出ないものの,野村選手の2連覇,井上選手の圧倒的な強さなど,日本人選手の活躍も報道された。99年の柔道世界選手権がイギリスのバーミンガムで開催され,柔道競技の知名度自体がイギリスで上昇したこともあるだろう。
 肝心のイギリス人柔道選手に関する限り,今回は「残念報道」が多かった。まず,男子では99年世界選手権の81kg級で優勝し,今回のオリンピックでも金メダルを期待されたスコットランド人グレアム・ランドール選手が3回戦でイランの伏兵に敗れてしまった。イランの選手も次で敗れたため,ランドール選手は敗者復活戦にすら進めなかった。BBCはこのニュースを"Shock exit for Randall "という悲劇的な見出しで報道し,この階級で日本の滝本選手が金メダルを獲得したことには全く触れなかった。 イギリス柔道は女子の方が層の厚さでは上らしく,古くは金メダリストのブリッグズ選手を思い出すし,今回のシドニーでもケイト・ハウェイ選手が70kg級で銀メダルを獲得した。BBCも"Brave Howey takes silver"と彼女の攻撃精神を称えた。しかし,あとの階級には悲劇の影がつきまとう。イギリスにとって最もショックだったらしいのは,52kg級で金メダルを期待されたデビー・アラン選手が,なんと計量オーバーで失格となり,試合に出ることさえできなかったことである。BBCの報道では,"Debbie Allan's dreams of a gold medal were shattered at the weigh-in"となっている。「英国柔道の悲劇」は翌日の57kg級へと続く。同じくメダルを期待されたチェリル・ピール選手が銅メダルを取った日本の日下部基栄選手に2回戦で敗れた。BBCも"Great Britain's judo misery continued as Cheryle Peel was bundled out of medal contention by eventual bronze medalist Kie Kusakabe of Japan."と半ばやけっぱちである。
 いずれにせよ,今回は実現しなかったが,日英がオリンピックの場で金メダルを争う可能性が一番高い競技が柔道であることは間違いない。イギリスには欧州の柔道大国フランスへのライバル意識があるのか,BBCも「疑惑の誤審」でフランスのドゥイエ選手に敗れた篠原選手について,"Furious Japanese claim French judo foul"(フランス柔道のファウルに日本の猛烈な抗議)との見出しで詳しい報道を行った。写真付で唯一報道された日本の柔道選手が悲劇の篠原選手とは皮肉である。

イギリスで最も注目された日本人選手
 これは何といっても女子マラソンで優勝した高橋尚子選手である。BBCは,"Takahashi breaks marathon record"の見出しのもと,レース経過について詳細な報道をし,"Naoko Takahashi celebrates as she crosses the line"という説明付で,歓喜の表情でゴールのテープを切る高橋選手の写真も載せた。記事最初の一文"Naoko Takahashi created a piece of Olympic history by becoming the first Japanese woman to win an Olympic track and field event as she took marathon gold in Sydney."から,高橋選手の優勝が日本にとってどれだけ大きな歴史的意義を持っていたかをBBCが正確に認識していることがわかる。ともかく日本人選手の活躍についてはほとんど報道しないBBCにとっても,高橋選手だけは破格の扱いで,今後のオリンピックでも日本人選手がよほど世界を驚かせるような活躍をしない限りこれほど注目されることはないだろう。まさに高橋選手のマラソン金メダルは日本スポーツ界にとって100年に1度の大ニュースといっていい。