上杉俊直の掲示板(2002年以前分)

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上杉俊直 25 May 2002 07:10:08

 

 樋口様、私のホームページへ書き込みありがとうございました。パソコン初心者の私は、掲示板を毎日開いていますが、最近書き込みがないと思っていました。メールで倅から教えられ、樋口様から書き込みがきていることがわかりました。お礼がおそくなりましたことをお詫びいたします。
 樋口様か仰るとおり、私は工兵学校9期です。同期生20名くらいで、フイリッピンへ派遣されました。運よく帰還することが出来ましたが大部分は戦死しました。樋口様の言われるように当時は死ぬことは恐ろしくなかったですね。手柄をたて、敵をやつつけることばかり考えていました。久留米の工兵隊へ入営されたそうですね。
 私の戦記を国会図書館へ寄贈すること、気恥ずかしい気もいたしますが、考えさせていただきます。
 書き込み有難うございました。
  上杉俊直

 

樋口定廣 22 May 2002 15:48:09

 

上杉 様 何気なくホームペイジを開いて貴君の戦記を拝読し、コピーして熟読させて頂きました。後輩として「ご苦労様の一言」に尽きます。10年20年100年後には日本将兵カク戦えりと我々の孫、曾孫などが心読する日が必ずくると思いますので、是非、国会図書館に戦記を寄贈されることをお薦めします。
なお、貴君は9期生では???、久留米56P補(西部第52部隊)では吉嗣、鴛海見習士官を、戦後工友会では奥野、田中、西川各氏と年1回松戸工兵学校跡で逢つています。因みに小生は第3乙、でも19年3月教育召集(3ケ月)を受け、文科系の者が理工系の久留米工兵に入隊、映画(真空地帯)そのものの虐め、除隊1ケ月前に中隊長より呼び出を受け幹候を受けさせられ(帰りたい一心に、たとえ一兵卒でもお国のためは同じでありますからといったがどっかれ)甲幹となりました。除隊した同年兵は1週間後に赤紙、乙幹の連中は營内教育後戦地へ、運不運は紙一重ですね。工兵学校の想い出は、地獄坂、八柱、江戸川などで通信、対戦車攻撃、トランシットでなく平盤による測量、架橋、操舟、隠密渡河、橋梁爆破、挺身奇襲等でした。いまも走馬灯の如く甦ってまいります。12期生の小生は20年4月見習士官、船がなく、原隊へ、1ケ月後、護西兵団の宮崎にて坑道造り作戦中終戦を迎えました。大正生まれの一節を記し、失礼します。大正うまれの俺達は、明治の親父に育てられ、忠君愛国そのままに、お国の為に働いて、みんなの為に死んでゆきゃ、日本男児の本懐と、覚悟を決めていた、なあお前。尚、戦死に対し当時さほどの恐怖心がなかった事を付言致して置きます。大正12年1月生 樋口頓首

 

上杉俊直 7 May 2002 20:41:55

 

 阿蘇望亭、稲益様

 私と同郷とは驚きました。阿蘇はなつかしいところです。宮地、高森等はよく行きました。
 外輪山の山なみは、今思い出しても胸がキューンとなるような感じがします。

 私の住んでいる家から、電車で2時間のところに住んでいる倅が、おやじの楽しみのためにと、
 何度も来てくれ、パソコンの設定、メール、ホームページなど皆んな教えてくれました。

 阿蘇の空気はうまいですね。

 

上杉俊直 7 May 2002 20:23:02

 

  hikari-kko様 
 私のホームページを訪問していただき、ありがとうございました。
 79歳になったとき、あと幾らもないからと、戦争体験を書いたのです。
 

 

hikari_kko   7 may 2002 7 May 2002 16:53:11

 

上杉様 拝読させて頂きました、現在はpawpaw_jpのHNにて同じカテに出ております、フィリピン戦線、第二次世界大戦 太平洋戦編の写真集と新しい歴史教科書の第二次世界大戦時代が唯一の私の戦争を知る道しるべとしております、フィリピン戦線の激しい写真の記録を見ております、トピック主、takarano4さんとは話し合ってきましたが、お互い空襲しか知らない子供でした、トピ主は戦争の凄まじさに耐え兼ねていましたので私が後を繋げていくからと云う事になりご自身の戦争体験を聞かせて欲しい旨伝えてきました。大勢の体験者が投稿されました、いろいろ勉強させられまして感に絶えません、#800位の所で投稿者も居なくなり、外地での体験者が半世紀も過ぎても個個の戦争がこれで終ってくれたのかしら良かったと思いました、そして閉じる宣言を致しましたが、戦争を体験しない人たちで賑わい終わる事が出来ないままに来ました、このトピのタイトルが大変鬱陶しく思ってきましたがふと数ヶ月ぶりに開いて、目にとまり一気に読んでしまったのです、投稿が済んでもそれぞれの戦争体験は終わる事ではないのでしょうね、凄まじく余りにも厳しいですね、戦友の分まで長生きをして下さい。

 

阿蘇望亭 7 May 2002 07:55:26

 

上杉様、はじめまして!阿蘇の稲益と申します。
ご子息様が私のHPをご訪問いただき、このHPをご紹介いただきましたので飛んで参りました。熊本のご出身だそうですね。戦記の方はこれから拝見させていただきますが、私の父は陸軍の中国戦線で苦労したようです。家内の父は海軍でマキン、タラワなどの話をよくしていましたが、二人とも明治43年生まれで、戦地からは無事帰還しましたが70年余の生涯を終えて既に亡くなりました。
上杉様はお父上のHPを紹介下さるようなご子息(と言っても私と同年代?)をお持ちでお幸せですね。私は孫を持つようになった今になって過去の親不孝を悔いている者です。

 

上杉俊直 3 May 2002 21:13:33

 

鎮目さん、書き込みありがとうございました。右半身が不自由で左薬指一本でお書きになったとか。ご努力に、頭が下がります。左手の一本では大変でしょう。私もやっと両手でタップタイピングとやらを真似ていますが間違って他のキーを押すことが多く、キーを見ながらやっています。
 また書き込んでください。ありがとうございました。

 

 鎮目 典雄 3 May 2002 16:22:50

 

 フイリッピン・マニラ で生きているのが不思議のような激しい戦闘ご苦労様でした。この手記を読んで部下・同僚士官もおられるであろうに、これだけの詳報を発表なされ本当に良くぞ此処までと頭が下がると共に胸が締め付けられ23回に分けて読まして戴きました。
あの時代我々に何が出来たでしょう、世は挙げて戦争遂行と声高に叫び あげくのはてに児童まで動員し松の根堀り
空襲が激しくなれば有無を言わさず疎開させ、国民・前戦の兵士の苦労など考えず虚偽の大戦果損害は軽微なりと言う
大本営、生れ落ちる時から軍国主義教育で育った私達ですから何の疑いも無く国のために命を捨てる事は名誉なことだと思っていました。
昭和1612月8日 我が海軍の真珠湾攻撃により(これは開戦に至った経緯が徐々に判明するにしたがい枢軸国と称する米・英・蘭・支に包囲され何処にも逃げ場がなくなったため)勃発。?何かの本で読んだ受け売りです、
わずか2・3年のことですが軍国少年であった私が自分なりに考え行動し体験した事等思い出しながら、綴って置きます・・・・・・・・・(現在私は脳疾患後遺症右半身が不自由で左薬指一本でキーを打つので時間もかかり、疲れも人の倍もあると思いますので書き込みも長くかかるかもしれません、それでもよろしかったらトビって下さい)。        

 

上杉俊直 3 May 2002 13:07:15

 

前回はこの掲示板の書き込み字が小さいと思っていたのですが、この書いている
内容欄の字の大きさと、掲示板に出てきたときの字の大きさは、違うということが分               かり安心しました。

 

上杉俊直 2 May 2002 22:36:53

 

  福田さん、私の掲示板に最初に書きこみ下さいまして、ありがとうございました。
  今日ホームページに載せたのです。
 この字はちょっと小さいな、と思うんですが、なにしろホームページを載せたのも
 初めてだし、このように掲示板に書き込むのも、始めてで字を大きくする方法を勉強
 するひまがなかったので、このまま小さい字で書かせていただきます。1昨年の79
 歳からパソコンを始めたばかりの初心者です。
  前置きが長くなりましたが、私の兄も海軍大尉で南方で戦死しました。私は飢餓死寸
 前の状態でフイリッピンから帰ってきましたが、帰ったら直ぐ肺結核で病院に入りま
 した。福田さんは呉で生れになったとか。私は宇品から戦地へ行きましたから、懐かしい
 ところです。 今日は有り難うございました。

 

福田典高 2 May 2002 14:44:23

 

初めまして、あれ? ぼくが最初の書き込みですか? ともかく、感動と驚きとともに以前から読まして頂いております。ぼく自身は、父が海軍中尉でしたが、終戦後1年内に亡くなりました。36歳で戦病死恩給扱いです。ぼくは広島県、呉の海軍病院で生まれ、7歳まで大分の佐伯防備隊、軍港の官舎住まいでした。叔父は中国で騎兵でした。そんな思い出と歴史の本音を知りたくて、この掲示板を毎回愛読しております。HPもお気に入りに入れて随時読ませていただきます。いつまでもお元気で・・・どうも有り難うございます。

 

上杉俊直 2 May 2002 09:52:55

 

掲示板を設置しました。