オーバーブック

  どうしても取れないお盆の時期のハワイ線など、「航空会社がオーバーブックで」と便利に使わせてもらっているオーバーブックという言葉だが、まさか自分がそんな目に合うとは思わなかった。しかも帰りの便で。

  ローマからヒースロー経由の東京行き英国航空だったが、ローマチェックインの時に、後ろに長蛇の列だというのに30分以上自分のところで滞り、「英国航空とはいうものの、ローマの空港では恐らくアリタリアの職員が業務委託をしているせいで遅いんだろう、しっかりしろよ、イタリア人」と自分的にはゆったり構えていたのですが、徐々に後ろの列から文句が出始めたときは恐ろしかった。

  イタリア語だったのであくまでも想像だが、男「その客のミスでそんなに時間がかかってんのかよー!」職員「違うわよっ。つべこべ言わずに大人しく待っていやがれ」との緊迫したやりとりが交わされていたようです。
 
 結局、私と同姓同名の乗客がハンブルクの空港で先にチェックインしており、もうひとつ同一人物の二重予約があると思ったハンブルクの職員が、私の方の記録をキャンセルしてしまったらしい。え〜そんなの予約の初歩じゃん〜。その後乗り換えた、ヒースロー発東京行きの便では、一人乗れなくなったらしく、もう全員シートベルトを締めた後なのに、私の所に何度も乗務員がボーディングの確認に訪れました。
  
  私としては喉元まで「ビジネスクラスに移ってやってもいいですよ」、または「一泊分のホテル代くれたら明日にしてやってもいいですよ」と出掛かっていたのだが、すぐ前の席の人が肩を叩かれたと思うと、寂しげに降りていった。BAの職員がスタンバイで乗っていたのか、どういう関係の人かは不明だが、どうやらビジネスクラスも空いていなかったらしい。
 モスクワトランジット
モスクワ トランジットビザ
  成田発がすでに3時間遅延だった時から、うっすら予測出来ていたことではあったが、案の定モスクワでミュンヘン行きへの乗り継ぎができなかった。空港では、同じような境遇の日本人が20人位と、外国人が数人いる。しかし説明は全て英語だ。しかも申し訳ないという態度は一切無しだ。

    シェレメチェボ空港は、照明の数が少ないせいか、とても暗い。しかしインテリア次第ではもっと明るくすることも可能である。モスクワのインテリアデザイナーにはぜひ一考を促したい。ロシアは、空港を出る場合には24時間以内の乗り継ぎでも査証が必要なのだが、もちろん私も含め殆どの人は持っていない。お客さんから話には聞いていたが、実際にどんな風になるのか、わくわくする。

   周りの話を聞いていると、東欧諸国や乗り継ぎが良いパリ・ロンドンまでの人が多いようだ。いかにも旅費を節約したようなミュンヘン行きの選択をした人は見当たらない。小一時間ほど待たされると、ようやく係員が出てきて、ビザを持っていない人には緊急通過ビザを発給し、一泊分のホテルをご用意しているとのこと。ホテルって・・・私の脳裏を刑務所の独房がよぎる。だらだらしたビザ発給が全員終わるまで待つと、下にバスが待っているとのことで移動する。バスって・・・私の脳裏を護送車がよぎる。空港の出口では・・・出口というか納品搬入口のような場所では、屈強な警備員がにらみつけてくるので、私もにらみ返して応戦。

   バスは、最新型の観光バスだった。きれい・・・。意外。外は真夜中で真っ暗だが、空港の敷地と隣接した場所に「OVOTEL」のネオンサインが灯るホテルがあり、バスはそこへ向かってゆく。オボテル?・・・ロシア資本の新ホテルか?・・・不安がよぎるが、単にNのネオンが消えているノボテルだった。吹き抜けのある豪華なロビーの一角で、部屋割りが行われる。その一角だけ背の高いパーティションで仕切られており、向こうがどうなっているのかさっぱりわからない。

  部屋割り後、屈強な警備員に見張られながら、ここでもまた納品搬入口のような薄暗い廊下を列を作り誘導され、エレベーターに乗せられる。ここでふざけて「わーい」なんて列から抜け出たら、銃殺されそうな雰囲気。エレベーターは2階へ。頑丈な鉄の扉の中が客室への廊下で、その扉は全員が中に入った時点で施錠される。廊下には監視台が置かれ、パスポートは監視人に預け、各自部屋に入る。もちろんホテルの他の施設には行けない。

  部屋は意外ときれいで広く快適。窓からは空港が見える。しかし、もしかして監視カメラがどこかにあって、ビッグブラザーが見ているのではないかとの思いはぬぐえない。同じ階に不運なトランジット仲間達が集えるバーがあるらしいが、疲労のため行く気になれず、ルームサービスを頼む。お支払いはドルだけのようなことが書いてあるが、ユーロも使える。おつりがルーブルなのは仕方ない。

  部屋の外はどうなっているかなー、なんてドアを開けると監視人と目が合ってしまうので注意。監視台のすぐ前に公衆電話があるのだが、どんな種類の会話もはずまなさそうなシチュエーションで、日本人のおじさんが大声で電話していた。

  翌朝、何時のフライトであろうが、誰でも一律7時に出発しなければならない。荷物を持って外に出ると、監視台の上に無造作に全員のパスポートが置かれ、「ハイ好きなの取ってって〜」的な、ラフな雰囲気。なぜそのセキュリティーだけが甘いのか。私なんか会社で、お客さんのパスポートを机の上に一瞬置くだけでも怖いのに。

  再び全員でエレベーターに押し込まれて一階へ。するとそこの一部屋に、朝食が用意されているじゃありませんか。この旅一番の予想外な出来事。しかもピロシキにボルシチではなく、パン数種類とヨーグルトが一人ずつセッティングされている。ジャムパン2種類とコーヒーだけだったベニスのホテルよりも豪華。席は人数分しかないため、1テーブル10人くらいの他人と同席することになる。私の前には、私が今までの人生で飽きるほど会ってきた、いばりんぼタイプのオヤジが。
モスクワ空港(暗い・・・)
  いばりんぼは、「昨日旅行会社に文句の電話を入れたけど、旅行会社は何もやってくれない」と大声で文句を言っていたので、私はもちろん沈黙。日ごろ旅行会社の地位向上を願う私と言えども、ここで旅行業約款について論議したら、恐らくその場の全員を敵に回す事になったであろう。このオヤジ、私がミュンヘンまで行くことを聞くと驚きまくり「なぜまたアエロフロートで?」と聞きたがったが「安いからだよ、参ったか」と素直に言えるはずもなかった。その上、残る一生でもう2度と出会うことがないだろう、ロシアのヨープレイトが作ったフルーツソースを私の分まで食べてしまった。ヤロ〜。

  ところで同じテーブルに、東京から乗っていた白人の20歳そこそこのカップルがいたのだが、女の子は日本のキャラクター「シンカンセン君」のリュックを背負い、日本への観光客に見えるが、2人とも一言も発しないので、どこの国の人なのかさっぱりわからなかったのが悔やまれる。

  朝食後、再び監視の中バスに乗り空港へ。これで、最初で最後にしたいモスクワトランジットが終わり、残ったのは使い道がないルーブルの小銭。ちなみに帰国時にウィーンからモスクワで乗り換えたときは、魔女のような女性が怪しげな日本語を駆使して乗り換え案内をしてくれた。
 ロストバゲージ

  JALでロンドン乗り継ぎミュンヘン行きの時、ミュンヘンの空港で自分の名前がアナウンスされていた。どうやらJALからBAに乗り換えた乗客の荷物が、全てロンドンで積み残しになったよう。翌日のBA便でMUCに届けられるので、その後ホテルに送ると言われた。翌日はインスブルックに移動する日だったのに・・・・。

  悪いことは重なるもので、ホテルもオーバーブックで近くのホテルにふられていた。なんか、着いた早々不吉な旅。
  翌日チェックアウトの正午まで待ったが荷物はこない・・・空港に電話しても誰も出ない・・・届け先のホテルはオーバーブックだったため、ロビーで待たせてもらった。フロントの女の子はとても親切で、何度も空港のBAに電話してくれるが誰も出ない。誰も出ない電話番号を教えるとは何事か。

  結局、夕方荷物は届けられた。それから移動して、インスブルックのホテルは8時ごろ到着だった。全体的な旅程には差し支えなく、DIE MAUSを見たり、初めてミュンヘンの昼を見たり、同じLOST仲間のご夫婦にその後、ハルシュタットとウィーンでも偶然出会うという面白い目にもあったのだが、なにはともあれそれから一泊分の着替えを持って飛行機に乗るようになった。到着日が日曜日だったらどこも店は開いていないし、日本では久しく味わったことのない不便さを味わうことになる。
 飛行機事故の巻き添え

  テロの記憶も生々しいその年の翌月10月、一人でスカンジナビア航空を利用し、東京−コペンハーゲン−マンチェスターを往復した。親兄弟誰もが反対する中、旅行会社に勤める私が行かなくてどうする?と妙な忠誠心を持って旅立った。行きのSKでワインを飲みすぎ、自分史上初の旅行二日酔いで、コペンハーゲンの空港の、人気のない待合室で寝込んだのは今でも馬鹿だったと思う。

  それはともかく、帰りのマンチェスターの空港で、止せばいいのに東京でいくらでも飲めるスタバに立ち寄り、異様に厳しいセキュリティチェックを抜けて、ビクトリア・ベッカムの自伝や、日本並みに高いハリポタのペーパーバッグなどをひやかして出発20分前に登場口に着いた。

  ところが、空港職員がいない。お客さんはすっかり乗る気でスタンバイしている。出発時刻を十分過ぎ、ようやくアナウンスあり。しかし苦手のイギリス英語でうまく聞き取れない。お客さんは、「オ〜」とか「ガッデム」とか言い、(ってそれは嘘だけど)ざわめいている。私も分かったような顔をしてみたが、わかったのは「ミラノ」と「アクシデント」と「ディレイ」のみ。

  結局定刻から三十分遅れで何事もなかったように飛び立った。翌朝、私がコペンの町を歩いていると「TOKYO HEAD LINE」みたいなフリーの新聞を配っていたのでもらうと、一面には焼け爛れたSKの機体の写真が大写しに。しかし、もちろんデンマーク語はさらにわからず、ホテルでBBC(の字幕)を見て初めて、ミラノでSKの事故があった事を知った。リナーテの管制塔のミスが原因で、航空会社には原因がなかったとされていたが、帰ったらきっと、「ほら、いわんこっちゃない」って親族一同に責められる事を思い、突如帰国が憂鬱に。
 住宅街の迷子

  ハルシュタットに船で入るために、電車を利用することにした。当時鉄道が一時不通になっており、一度BRANSEEで電車を降りてバスに乗り換えてBAD ISCHULまで行ってから、再び電車に乗り換えてハルシュタットへ、という、うっかり者にはハードルの高い行き方があった。

  もちろん私は事前にネットなどで調べつくし、イメージトレーニングまでして乗り換えに臨んだ。同行者Sは冷静を装っていたが、車掌さんが来たときに、乗り換え方法をしつこく確認しており、『いくら、ぼんやり者が2人乗っていても、これだけ注意すれば大丈夫だろう』と、かなりゆったりした気分で、車内で雑談などしていた。

  車掌さんは、『いいかい、次の次のBRANSEEというところで降りるんだよ、次の駅はBRANSEE LANDUNGSPLATZというまぎらわしい名前だから、たまに間違えて降りようとするあわてんぼが多いんだよ、わはははは』なーんて言っていたので、私たちも『そんなあわて者がいるんですか、こりゃおかしい、わはははは』と、爽やかに会話を終えた。

  車窓は美しい湖を映し出し、『おお、あれがブランゼーという湖だな』と、カメラを向けたりしていたのだが、そのうち列車は駅に止まり、良く考えてみると、それが車掌の言う「次の次の駅」だったのだ。私たちは大慌てで荷物を持って列車を降りた。互いの素早さと幸運を讃え合っていると、電車から車掌が悲しげな顔でこちらを指差しているではありませんか。まるで私達が一つ前の駅で降りてしまったみたいな落胆ぶり。同じように降りた乗客は、インド系の青年二人。遠ざかる電車に手を振りながら気づいたのだが、やはりそこは一つ前の駅であった。

  次の電車は一時間後。どうやら、同じように誤って下車してしまったインド系の青年二人は、途方に暮れたように立ち尽くしていた。私たちは、まるでここが目的地かのように振る舞ってみたのだが、彼らは2人会話もなく、ただ時刻表を凝視し、その後歩き去って行ったので、もしかしたら彼らこそ、ここが目的地で、「あーあ、あの日本人達、間違えて降りちゃってやんの」とか思っていたかもしれない。

  その船着場の町もなかなか良い雰囲気ではあるのだが、私としてはできるだけ早くハルシュタットに着きたかったので、次の駅まで歩く事にした。河畔をいけば気持ちよいし、電車で3分ということは歩いて30分。楽勝だ。同行者Sは、このたくらみと曖昧な時間計算がうさんくさいらしく、ものすごく渋々付いてくる。沖縄の伊計島で、車で5分のスーパーを探して、1時間歩かせた時以来の渋り方だ。

  案の定、10分後には線路も湖も見失った。ただの住宅街をとぼとぼ歩く。途方に暮れて、広い道路、または標識、望めれば地図、などを探すが何もなく、時間はすでに30分経過。絵に描いたような異邦での失敗、というか多分、余計な事をしたばっかりに引き起こした特異な失敗に、同行者Sは何か言いたげだが、言わせない。

  そんな険悪ムードの東洋人2人の前に、突然ワゴン車が止まり、作業衣を来た40代くらいのおじさんが出てきた。おじさんはドイツ語でしゃべりかけてきた。私は英語で返すが、全く通じない。例えば、"STATION"さえ通じない。しかし、"BAHNHOF"と言ってみると、にっこり笑う。「もしかしてこんなことで迷っちゃったの?」と聞いているのかもしれない。「駅を探しているうちに迷っちゃったんです、怪しいものじゃないよ」と、怪しまれないようにできるだけフランクな身振りで伝えると、おじさんは「じゃ、乗せてってやるよ、乗りな。」というジェスチャーをするではないですか。

  私の脳裏には、「外務省渡航情報」で読んだ睡眠薬強盗や、レイプ事件の情報がぐるぐるとめぐっているが、同行者Sは、「ありがとうございます。助かります!」なんて、うかうか返事をしているではないか。車の中にはケーブルやペンチ、道具箱などが積まれている。私は、「あのペンチで殴って気絶させ、その間にケーブルでぐるぐる巻きだな」、と最悪のシナリオを執筆中であったのだが、そうしている間に、同行者Sは、はっっ、もう乗ってる!

  そんなわけで、私も乗ってはみたが、おじさんは言葉ができない私達に、ドイツ語で楽しそうに話しかけてくれた。たいへんに良い人だった。私も、このような好人物になりたいと願い、自宅付近で迷える外国人を見たらすぐさま助ける覚悟なのだが、自宅近くに住む外国人はやたらと日本語ができる人が多く、未だ実行できていない。

  その後、無事BRANSEEの駅に着き、バスに乗ろうとすると、アラッ、さっきのインド系の青年が乗っている。どうやら順当に一時間後の電車に乗ってやってきたらしい。私達もそうすれば良かった・・・。
 道を教える者と、シャッターを押す者

  同行者Sは、外国でいつも親切にされる恩を返そうと、日本で困っている外国人には必ず声をかけてあげるそうだ。ただ、舞い上がってしまうからか、わざとではないのに間違った事を教えてしまい、たいへん感謝されて別れた5分後に誤りに気がつくことも多く、今のところ外国人の助けになっているかどうか非常に疑わしい。

  また、Sは、『つい、シャッター押させてみたくなる顔』らしく、世界中の人気者で、どこの国の観光地でも、他人のカメラのシャッターを押しまくりです。Sのたたずまいのどこかが、シャッターを連想させるらしい。
  私は『つい、道を聞きたくなっちゃう顔』かもしれず、特に国籍不明な様子をしていないのに、どんな異国でも、あり得ないディープな道を聞かれる。例えば、京橋で「猫通りはどこにありますかね?」と、外人に聞くようなもので、そんなマニアックな道誰が知るか!むしろ、こっちが知りたいわ!!・・・と思うものの、出来る限りお答えしているが、私には彼らの気持ちが全くわからない。

  一度、ミュンヘンの空港で『あら、あなた、ボストンに行くの?』と唐突に聞かれた事があるが、いやホント、それはないので勘弁してください。まあ、そんな私たちなので、十分人々にお返しはできているはずです。
 未予約の上に満室

  ポントレジーナに初めて着いたのは夜。駅前のHotel Bahnhofを予約していったのだが、私が日にちを間違えて予約してしまい、すでに満室であった。ところが、ここのオーナーのベティさんという女性が、少し離れたゲストハウスに泊まらせてくれると言う。そこまでは歩いて2,3分なのだが、荷物もあるし車で送ってくれると言う。

  そして、着いてびっくりしたのだが、それは本当に一軒の別荘で、キッチンやダイニング、リビングルームまで完備されているではないか。同行者Sが、それまで全ての交渉をしていたのだが、突然不安になった様子。もともとBahnhofでは 90フランという部屋を予約していたが、ベティさんがゲストハウスは80フランだと言ったというのだが、急速に自分のヒアリング能力に自信をなくし、「いやもしかして一人80フランだったかも・・・、いやそれどころか800フランかも・・・」と恐ろしい事を言い出した。

  もしここが800フランなら、この旅はここで終了である。残る10日間はパンのかけらを食べて過ごすことになろう。私は自分が間違えて予約した事もすっかり忘れ、Sの交渉能力に激しい疑惑を抱いた。

  夕食を食べるためBahnhofホテルに戻ると、ベティさんがレストランにいたので、オーダーを取りに来たときに料金を再確認することにする。場合によっては、レストランで飲み物しか頼めないかもしれません・・・という悲惨な覚悟である。ところがベティさんは、事もなげに一泊二人で80フランだという。朝食も込みだ。私も急速にヒアリング能力に自信をなくし、紙に書いてまで確認する始末。数字が万国共通でよかった。

  滞在中のある日、COOPで食材を仕入れ、キッチンで食事をすることにする。恐らくこのキッチン等は使わないという前提で80フランだと思うので、食事した後は現状回復に努めた。
  朝食は歩いてホテルまで行かなくてはならないが、食事内容はなかなか良く、たっぷりのミルクとコーヒーがつく。他の宿泊客は、ご年配の夫婦が多く、久しぶりに若年者の気分を味わえた。
 墓地でネオナチ

  厳密に言えばトラブルではないのだが、ハイリゲンシュタットで葡萄畑の道を散歩していると、墓地に出た。ここを通った時、黒い革ジャンのネオナチ風兄ちゃん2人が前から歩いてきたのだが、他に逃げ道もなく、またもや私の頭の中には「外務省渡航情報」で読んだピストル強盗や、電撃誘拐の事がぐるぐるめぐり、ドイツの小説で、主人公がネオナチにやられるシーン、オーストリア極右政党の躍進などを思い浮かべていたのだが、同行者Sは「葡萄畑はいいねえ」とのんきに伸びなどしていた。

  ドキドキしながらすれ違うと、その中の1人が声をかけてきたので、「パスポートだけは勘弁してください」と思ってリュックの紐をぎゅっと握りしめた。しかし、同行者Sは、「よいしょっと」とか言ってリュックサックを肩からおろし、中から何か取り出そうとしているではないか。もしやハジキを持っているのか?私が半分気絶していると、同行者Sは、取り出したティッシュをネオナチ風兄ちゃんに渡し、兄ちゃんはティッシュを一枚だけ取った後、たいへん感謝して去って行った。

  同行者Sが、二度聞きせずにドイツ語を理解できた貴重な瞬間であるが、半分気絶していたので、詳しく覚えていないのが残念だ。また、どの時点で兄ちゃんが、「こいつはティッシュを持っているに違いない」と確信できたのかは謎である。
 切符が出てこない

  ミルテンベルクの駅で、自販機で切符を買うとき、ローカル用のちょっとショボい機械にお金を入れました。案の定20ユーロは受け付けないし。で、財布中を探し回ってようやく見つけた10ユーロと小銭を自販機に入れたところ、機械沈黙。この旅行で、機械に無視されたのはこれで3度目なんだけどな。その前の2回は、いかにもローテクなお菓子の自販機で、50セント巻き上げられたんだけど、今回は16ユーロくらい。結構な大金です。と言っても、お金が飲み込まれてから電車に乗るまでの間、私はトイレに行っていたり、「アメリカン」とかいう、丸いスポンジにお菓子で目鼻を付けた、しょうもないパンを買おうかどうしようか激しく迷っていたので、今回機械に無視されたのは私じゃなくて同行者だもんね。運良くここは有人駅だったので、Sさんがカウンターのお姉さんに相談してみると、ドイツ語オンリーな書類を渡されて、これをフランクフルトの中央駅で提出しろと言われたそうです。もう時間がなかったので、新しい切符をカードで買って電車に乗りました。

中央駅では、3つくらいカウンターをたらいまわしにされた挙句、ようやくリファンドカウンターへ。魔法使いのようなおじいさんが、すっげー英語で対応してくれましたが、聞かれることと言えば、どこで、いつ、いくら払ったかとか、その駅のどの場所にある自販機かとか。欧州に口座のない私達にどのように返金されるかというと、カード会社を通じてだそうで、クレジットカードのコピーを取られました。

私達のリファンド手続きはそれで終わったんだけど、他のお客さんは、ものすごく念入りに色々な事を聞かれたり、チケットを透かし見られたり、パスポートを見せたりと、かなり時間がかかっていました。一体どんな切符をリファンドしようとしているのだろう。

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