カルフとヘッセ
ナーゴルト川のヘッセ
  カルフに着いたのは、とても天気の良い夏の日で、空が真っ青で日差しが痛いくらいだった。バスは集落を抜けて、畑の中の曲がりくねった道を行く。緑の野原に、金色の麦、モザイク模様のお花畑がゆるやかに広がり、何だかあまりの美しさと浮世離れした空気に、泣きそうになる。ヘッセの言葉を思い出す。「ブレーメンとネパールの間、ウイーンとシンガポールの間にある、愛らしい街並みをいくつも見てきたが、しかし、私の知る限りの中で最も美しい町は、ナーゴルト川のほとりにあるカルフ」。

  写真に撮るよりも、記憶に残しておきたかったので、カメラを向けなかった。この感動を分かち合いたいと思い、同行者Sをふと見ると、キャッ、ね、寝てる・・・。
  Calwの駅から町の中心までは、歩いてすぐ。鉄道駅も一応ある。私の目的は生家を見て、ニコラウス橋からナーゴルト川を見て、礼拝堂に寄り、博物館を見る事だったのだが、博物館は臨時休館していた。添乗員でなくて本当に良かったが、とてもがっかり。

  観光案内所でいろいろ教えてもらって、今はイカさない洋服屋さんになっている生家にあるプレートや、橋ヘッセのプレートの上にある銅像、「ヘッセの噴水」などを見た。噴水広場に面したカフェでランチをとり、果物屋さんでブラックベリーを買って歩きながら食べた。とても静かな町で、観光客は私の他に半パンを履いたアメリカ人一人のみだ。私は半パンを履いた人間を信用しないが、能天気そうな彼もヘッセのファンなのだと思うと、急に魂の友みたいな気がしてくるから不思議だ。

  バスの時間まで、広場に座っていろいろな事を考えていたが、とても考える事が容易にできる町だ。旅とは見る事、聞く事を優先しているように思えるが、本当は考えることを一番しているのだと思う。

  ヘッセの作品の中には、カルフやマウルブロンなどが舞台のものが多いが、そうではない作品にも、この町やこの町に来るまでの風景が感じられると思った。本当にあんな極東の島から、何千マイルもかかってようやくここに辿り着けて良かったが、アイデンティティと土地というものについても考えさせられた。この町が彼を作ったのなら、なぜ彼は晩年をモンタニョーラで過ごしたのか。最後まで彼の作品からカルフの影が消える事はなく、故郷に対してあんなに美しい言葉で語れたのに、なぜその場所を彼は離れたのか、などと考えた。

 ダブリン市民の町

  「ダブリン市民」は短編集だが、O・ヘンリーのように結末に大逆転やヒネリがあるわけではなく、どちらかと言えば、何も起きずに終わってしまう。最初は拍子抜けして、「次の章に続くのかな」と思って読み続けてしまったが、全然続かない。さまざまな人生のありさまを描く小説でも、アンダースンの「ワインズバーグ、オハイオ」のように、ややエキセントリックな人物が扱われたり、共通した登場人物がいたりするわけでもない。強いて言えば、ダブリンという町が主人公だとは、言える。

  あまりこの言葉は好きではないが、ジョイスについてはよく、「意識の流れ」が取り上げられる。この短編集を読んでいてもわかるが、登場人物がどう考え、また、考えながらどう行動しているかが詳細に描かれる。私はいつも旅をしながら、この小説を思い出す。
  登場人物は、ダブリンの町を歩いたり、パブで食事したり、だいたい一人で行動する。行動しながら、常に考えている。映画で、主人公の内面をナレーションが表現するように、動きの全てから登場人物の声が聞こえてくるようだ。

  オコンネル街、駅、おがくずの引かれたパブ、登場人物の心情は、町の情景と離れがたく結びついている。だから、この町を歩いていると、小説の登場人物のつぶやきがいつも聞こえてくるような気がする。例えば、「痛ましい事件」という短編の中で、別れた女性が轢死した事を知った主人公が、町を歩きながら感じ、思ったことを追体験のように自分も感じ、苦しくなる。ダブリン市民を読んだあとで、ダブリンを訪れるのは、とても不思議な体験だった。
 ベルリンとU2とヴィム・ヴェンダースとサルマン・ラシュディについて知っている限りの豆知識

  U2とヴィム・ヴェンダースとのコラポレーションは、例外なく良くできていて、音楽と映像との間に齟齬がない。「ベルリン天使の詩」で、ニック・ケイブやピーター・マーフィーを起用し、80年代の終わりの退廃的なベルリンを表現していたヴェンダースが、壁が崩壊した後の90年代のベルリンを表現するのに、U2の叙情的な曲を見出したのは面白いと思った。
faraway so close
  「ベルリン天使の詩」の続編「時の翼に乗って」に使用されていた「STAY」という曲は、私が特に好きな曲で、ヴェンダースも言っていたが「London, Belfast and Berlin」というくだりでは必ず口ずさんでしまう。映画自体は、B級のドンパチが気になるが、それ以外は美しい良い映画である。ボノは、ライブでこの曲を紹介する時に、「ヴェンダースがビートルズから盗んだこの曲を、今取り返した」と言ったらしいのだが、自分が彼の映画のために作っておいて「盗んだ」って、アンタ。「Helter Skelter」の演奏時に、「チャールズ・マンソンがビートルズから盗んだこの曲を、今取り返した」と言っていたのは、まだわかるのだが。

  「Stay」のプロモーション・ビデオもヴェンダースが監督している。このビデオは一編の映画のようで、ちゃんと音楽と映像が融合している。ボノ達メンバーが、映画の筋同様に天使に扮して、ジーゲスゾイレの上から見下ろしたり、ナスターシャ・キンスキーが映ったりと、肖像権的にややこしそうな贅沢な映像である。この映像はU2のDVDに入っており、その中にヴェンダースが映像を見ながら解説する、というバージョンがあるのだが、「このジーゲスゾイレの像はセットなんだよ」とか「ポツダム広場にはミグがあったんだよ。」みたいな、「んなこた、わかっとるわい」「前から見えとったわい」的コメントが多くて面白い。

ヴェンダースの映画「夢の涯てまでも」のサントラ曲、「Until The End of The World」は、ヴェンダースに捧げられている。エッジの効いた曲で、この歌詞はなかなか良い。映画は、故・笠智衆などが出演し、日本も舞台になるロードムービーなのだが、未だかつてDVDはもちろんビデオでも販売・レンタルされているのを見た事がない幻の一品だ。

  ベルリンとU2の繋がりは結構深く、90年代最初のアルバム「Achtung Baby」はベルリンで1年かけてレコーディングされている。当初私は、「Achtung」は、よく電車のホームで見るドイツ語の「Achtung(アハトゥン:「注意」:attention!)」だという大発見をしたのだが、どこにもそんな事は書いてなくて、しかも全世界的には「アクトン・ベイビー」と発音されているので、たぶん違うであろう。ちえっ。

  

  2000年に公開された「ミリオンダラー・ホテル」では、ボノがプロデュースばかりか脚本まで担当している。この映画は、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ほどではないが、見ていて苦しくなるほど悲しいシーンが多く、挿入歌も切ない曲ばかりだ。そのうちのひとつ、U2の「Ground Beneath Her Feet」は、サルマン・ラシュディの小説「彼女の足下の土地」を読んだボノが、ラシュディに作詞を依頼したらしい。

  このプロモーション・ビデオの監督もヴェンダースで、一瞬ラシュディが映っている貴重な映像を見る事ができる。余談だが、ラシュディの「悪魔の詩」を私が読み終えるまで、かなりの集中力と時間を要したのだが、この本を読んでラシュディに死刑宣告をしたというホメイニ師は、よくぞ途中で挫折せず読み通せたものだ。結構な読書家なのではないだろうか。


 U2とシャルル・ドゴール空港

2000年発表の、U2の「All That You Can't Leave Behind」のジャケットは、パリ、シャルル・ド・ゴール空港の2Fターミナルで撮影されています。

ジャケット左後方の楕円形の電光掲示板には、「J-33-3」と表示されており、 聖書のエレミア書33章3節(Jeremiah 33:3)を指しているそうです。
「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」
という訳なのですが、回りくどいなー。英語の、
"Call to me and I will answer you and tell you great and unsearchable things you do not know."
方が断然わかりやすいかも。
ボノはこれについて、「It's known as 'God's telephone number'」とインタビューで答えているのですが、果たしてこれが小粋なジョークなのか、本気なのか、クリスチャンではない私には見当がつきません。

U2はジャケットだけじゃなく、プロモーションビデオも全編CDGで撮影。滑走路の上、飛行機が飛び交う中で歌うという、合成くさい展開の場面もありますが、このアルバムのテーマのひとつ、「旅」にはふさわしいイメージ映像で、空港がとても美しく撮られたビデオです。アウン・サン・スーチーに捧げた「Walk On」もいいのですが、私が個人的に好きなのは「When I Look At The World」という曲で、自分のもとを去り、決して会えないだろう人の視線で世界を見るつらさが伝わってきます。普通のメッセージソングと違うのは、詩に普遍性があり、宗教、信条、人種に関係なく、理解できることでしょうか。

ビデオの空港に興味ある方は、U2.comの「Beautiful Day」のVIDEOをクリックすれば、途中までご覧になれます。年に40ドル払ってファンクラブの会員になれば全編見られます。私は、更新時期には円高でありますように、会費の徴収方法がユーロやポンドに変わりませんようにと、お祈りしています。


左の写真は、似せて撮ってみたつもりですが、帰ってジャケットを見たら逆サイドだったので、無理やり写真を反転させてみました。真ん中に映っているのが、全然知らないおじさんなのが惜しい。

右の写真は、ビデオに出てくる、
「空港外への通路で、ボノがすれ違いざまにキャリーバッグをつかもうとする」
という様子を再現したかったのですが、被写体にやる気がなく、こんな中途半端な写真に。


あと、ビデオに出てきた「荷物のターンテーブルの上に寝転んでリンゴをかじってみる」というのもやってみたかったのですが、テロの世紀なだけに、あとあとの影響を考えて断念しましたわ。


 スミスとマンチェスター

  学生時代、スミスの、というかモリッシーのヘナチョコさには、大変に勇気付けられた。弱気な人間を主人公にしたポップスなんて、それまでなかったのではないだろうか。当時アメリカで流行していた、「アーメリカに生ーまれてえ〜」とか、「ジャンプだよ!ジャ〜ンプ!」のような、単純でマッチョでハッピーな曲に違和感を持っていた私には、本当に自分の音楽と思えるものにめぐりあった気がした。「Miserable Lie」とか、「Unlovable」とか「I know it's Over」とか、もう情けないことこの上なく、真偽はわからないのだが、オスカー・ワイルドをもじった歌、「Oscillate Wildly」から推測するに、恐らくこの人はゲイで、とても傷つきやすい人である。当時10代だった私は、あんなゴツそうな外人が、繊細で傷つきやすいということに、結構衝撃を受けたものだが。

  マンチェスターはそんな彼らの町で、彼らは失業保険をもらいながら、未来のあてなく音楽をやっていた。失業の多かったイギリス北部の町からは、同じような内省的で絶望的な歌詞を書く人達が、この頃たくさんいた。
  スミスは、生まれ育った町マンチェスターを嫌っていた。「Suffer Little Children」では名指しで町を非難しているし、「William, It Was Really Nothing」でもこの町が大嫌いだと言う。「There Is A Light That Never Goes Out」では、「あれは僕の家じゃなくて、彼らの家だから」、帰りたくない場所なのだとゴネていた。

  マンチェスターは、湖水地方への玄関口で空港もある大都市だ。ごみごみしていたり、建物が美しくないのは東京と変わらないが、日本の地方都市のシャッター商店街を連想させるような、テナントの入っていないビル、古くて暗い裏通り、退居してから随分たつオフィス、などが目につく。でもここは英国北部の中心都市なのだ。

  音楽が生まれるには、美しい風景、美しい町並みは関係ないのかもしれない、やり切れない思いや、荒廃したこころからも、人を動かす音楽は生まれてくる、と思った。

  関係ないが、昔リューネブルクからリューベックに行く電車の車両に誰も乗っていなかったので、「William, It Was Really Nothing」を大声で歌ってみたことがある。一曲が短いため、5回くらい歌ったところで車掌さんがやってきて非常に気まずい思いをした。

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