←前のページ トップページ↑ 次のページ→

    長野県高森町

安養寺

2008年11月02日

南北朝時代から室町時代にかけて、松岡氏は信州武家方の棟梁である守護小笠原氏の武将として大塔合戦や結城合戦にも出陣し、牛牧、吉田等の郷内の諸族はいうまでもなく、座光寺、宮崎、龍口等の諸氏までもその傘下に組み入れるようになったという。
この松岡氏のことが史上にあらわれてくるのは「安養寺記」によると城主松岡伊予守貞景(道山心公)は深く仏教を信じ下市田に安養寺を創建した。その子貞政は至徳3(1386)年亡父の33回忌を行い、且つ5部の大経200巻をつくり、これを同寺に寄進した。そしてその200巻のうちの「梵網経」(上下2巻)のみが今も安養寺に残っている。その奥書に松岡城主貞政の自筆が残っており、これは松岡氏関係史料として最古のもので、松岡氏の経済力の豊かさを示す重要な史料といわれている。
(松岡城址愛護会パンフレット資料より)

松岡城の麓に安養寺というお寺があり、やはり織田信長が攻めてきた時に焼かれてしまった寺であるとのことで立ち寄ってみました。すると、松岡城の松岡氏に縁のあるお寺でした。宝篋印塔の松岡氏のお墓もありました。当日は法事があったようで詳しいお話しを聞くことはできませんでした。


宝篋印塔
松岡伊予守貞景(安養寺殿堂山心公大居士)は安養寺開創の後およそ16年、文和3(1354)年10月21日に至り、松岡城の礎固くして一族繁栄し、安養寺の門高くして仏法興降の中に往生を遂げた。松岡氏の供養塔と伝えられる宝篋印塔である。
大円石上に安置され、基礎の四面に刻まれた格狭間の形や全体の手法から見て、吉野時代の作と推定される。多分貞景の嗣子貞政の造立したものであろう。この石塔は道山心公の墓塔であるともいわれている。
(看板資料より)

この寺は天正年中に織田氏のために兵火にかかり、ことごとく灰塵に帰した。
(長野県の武田信玄伝説より)


松岡城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→