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愛知県新城市

馬場美濃守信房の墓

2014年08月15日

所在地:鳳来町長篠字西野々51番地の1
由 来:天正3(1575)年長篠の戦いに敗れて退却する武田勝頼の最後尾を守りぬいて戦死した、馬場美濃守信房の首を埋めた所といわれている。
(看板資料より)

長篠合戦余話によると、馬場信房の墓には馬場信房殿戦忠死の碑と自然石の碑と二基あり、殿戦忠死の碑は明治24年に建立されたが、自然石の方はそれ以前のもので既に文字は風化してしまって読めなくなっているのだそうです。殿戦忠死の碑を建てた時に、前からあった墓石の下から数片の骨片と素焼の皿2枚が出てきたとのこと。しばらくの間は希望者に参観を許していたそうですが、とある人が参観した際に「名将の遺骨を見世物にするとは何事か!」と憤慨したため、遺骨を瓶に納めて埋葬したのだそうです。遺骨は大腿骨、もしくは頭蓋骨ともいわれたが現在では分からなくなっているとのことです。

 



2013年07月06日

今回は設楽原決戦場祭りに参加するため新城市に来ました。前日に長篠に来て長篠城を見学後設楽原に行く途中で馬場信房公の墓に寄りました。駐車場は無いのですが集合住宅の奥まで入ることができるのでそこで車を止めました。
ここは虫が多いので車の中で虫除けスプレーを十分に吹きかけてからお参りしました。ここは墓石の上に木があるので暗い状態なのですが、今回は魚眼レンズを持参していったので今まで撮れなかったような写真を撮ることができました。記帳できるノートが置いてあるのは長篠・設楽原の数ある史跡の中でもここだけではないでしょうか。

 



2006年05月05日

馬場美濃守信房が殿戦の後に戦死したのは長篠城から寒狭川のもっと上流の右岸ですが、その墓は長篠城弾正郭の西側(寒狭川左岸)にあります。この日は長篠城のぼりまつりでしたが、火縄銃による実演までまだ少し時間があったのでここに寄ることにいました。墓石の向って右側に記帳場があって、ノートが納められていたので読ませていただきました。私の他にも数人の人たちが参拝しておりました。

長篠合戦余話によると、馬場信房の墓には馬場信房殿戦忠死の碑と自然石の碑と二基あり、殿戦忠死の碑は明治24年に建立されたが、自然石の方はそれ以前のもので既に文字は風化してしまって読めなくなっているのだそうです。殿戦忠死の碑を建てた時に、前からあった墓石の下から数片の骨片と素焼の皿2枚が出てきたとのこと。しばらくの間は希望者に参観を許していたそうですが、とある人が参観した際に「名将の遺骨を見世物にするとは何事か!」と憤慨したため、遺骨を瓶に納めて埋葬したのだそうです。遺骨は大腿骨、もしくは頭蓋骨ともいわれたが現在では分からなくなっているとのことです。

 



2003年10月12日

所在地:鳳来町長篠字西野々51番地の1
由 来:天正3(1575)年長篠の戦いに敗れて退却する武田勝頼の最後尾を守りぬいて戦死した、馬場美濃守信房の首を埋めた所といわれている。
(看板資料より)


自元寺
馬場美濃守戦死の地
馬場美濃守信房之碑(馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓) 
長岳寺
福田寺
橋詰殿戦場
馬場塚
馬場美濃守信有墓所

 

 
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