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長野県佐久市

蕃松院

2014年05月03日

大梁山蕃松院の由来
当山はご本尊に釈迦牟尼佛(お釈迦様)を戴く曹洞宗で、本山は永平寺(福井)と総持寺(鶴見)である。寺殿によると、かつて西方にあった明法寺は戦火に遭い、現中門の西に移った。その後、天正8(1580)年儀山げん孝大和尚により整備され、曹洞宗として開山された。天正11(1583)年、戦国の武将、田口城主依田信蕃は、岩尾城を攻め、弟源八郎と共に没した。その子松平康国、小諸城主となるや父信蕃の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名「蕃松院殿節叟良?大居士」より寺号をとり蕃松院とした。
江戸時代に入り、この地は田野口藩の領下となり、天明6(1786)年より歴代藩主のお位牌を安置し菩提寺となった。寛政2(1790)年落雷のため焼失した。現本堂は文政5(1822)年の再建であるが、特にその規模は県内屈指で、彫刻の多用等江戸時代後期の曹洞宗建築の特色を今に伝えている。
歴代住職は正法の興隆と檀信徒の安祥を願い護持発展に精励された。とくに明治初期、第21世新井良音大和尚、仁王門の建立等に努め中興の祖と敬慕されている。
寺の裏山には信蕃の墓と伝えられている五輪塔があり、後方には古城が高くそびえる。実に、風光清秀の中に堂宇整然とした佐久の一大古刹である。
(看板資料より)

本堂


依田右衛門佐信蕃公の由緒

依田信蕃は天文17(1548)年清和源氏の流れを引く芦田の豪族依田(芦田)下野守信守の嫡男として生まれ、父と共に武田信玄・勝頼に仕える。
元亀3(1573)年美濃岩村城攻略戦において、七百の手勢で五千の織田信長勢を破る戦功を上げ、信玄・信長からその勇知を認められる。
天正3(1575)年北遠州の要、二俣城を守り、徳川軍の攻撃を知略をもって7ヶ月の籠城戦に耐える。城明け渡しに際しては、米などの食料を家康に要求し、部下に十分の食事と携行食糧を与え、又開城撤去日が雨のため、晴天日の立ち退きを認めさせるなど、軍容・作法正しく、堂々と明け渡しを行い家康を感心させた。
同7年から同10年3月の武田勝頼死亡、武田家滅亡まで、駿河田中城の守備につく。用水の改修、藤枝堤の築堤、甲州流水防技術の普及、荒地の開発等民政にも意を注ぐと共に、徳川軍の全7回の攻撃を死守する。主君に対する忠節、知略、部下に対する思いやり、民政に長けた優れた武将として高い評価を得ている。
同10年6月信長の死後、家康から再三の誘いに応じ家康に臣従、佐久・諏訪の両郡を与えられ、徳川軍の佐久平定に活躍、同11年前山城の伴野信守・貞長父子を破り、前山城に入る。
田口城の阿江木能登守を攻略し、田口城主となり、この地に居館を構えた。翌11(1583)年2月22日徳川方に抵抗し、岩尾城に籠もる大井行吉を攻撃の際、弟源八郎信幸と共に戦死した。
信蕃の子竹福丸(14歳)は、父信蕃の戦功により家康から「松平」の称号と「康」の字を与えられ、松平康国と名乗り、信蕃の跡目を継ぎ、小諸城主10万石の大名となる。
天正13(1585)年松平康国は、父信蕃の菩提のため、田口城山麓の居館跡に明法寺を移して諸堂を再建し、父信蕃の戒名「蕃松院殿節叟良○大居士」、祖父備前守義玄の戒名「大梁院殿森補良源大居士」から「大梁山蕃松院」と名付けて当寺を建立した。
平成22年改修工事の際、この五輪塔の建つ土台の大石の下から信蕃のものと思われる刀が発見された。
(看板資料より)


蕃松院歴代住職の墓地

中央の無縫塔が当寺開山儀山○孝大和尚様、両側は歴代住職の墓である。
(看板資料より)

 



2007年10月07日

大梁山蕃松院の由来
当山はご本尊に釈迦牟尼佛(お釈迦様)を戴く曹洞宗で、本山は永平寺(福井)と総持寺(鶴見)である。寺殿によると、かつて西方にあった明法寺は戦火に遭い、現中門の西に移った。その後、天正8(1580)年儀山げん孝大和尚により整備され、曹洞宗として開山された。天正11(1583)年、戦国の武将、田口城主依田信蕃は、岩尾城を攻め、弟源八郎と共に没した。その子松平康国、小諸城主となるや父信蕃の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名「蕃松院殿節叟良○大居士」より寺号をとり蕃松院とした。
江戸時代に入り、この地は田野口藩の領下となり、天明6(1786)年より歴代藩主のお位牌を安置し菩提寺となった。寛政2(1790)年落雷のため焼失した。現本堂は文政5(1822)年の再建であるが、特にその規模は県内屈指で、彫刻の多用等江戸時代後期の曹洞宗建築の特色を今に伝えている。
歴代住職は正法の興隆と檀信徒の安祥を願い護持発展に精励された。とくに明治初期、第21世新井良音大和尚、仁王門の建立等に努め中興の祖と敬慕されている。
寺の裏山には信蕃の墓と伝えられている五輪塔があり、後方には古城が高くそびえる。実に、風光清秀の中に堂宇整然とした佐久の一大古刹である。
(看板資料より)

依田信蕃の墓と伝えられる五輪塔

蕃松院には今まで2回来たことがありました。2003年と2004年に来ているので今回は3年ぶりになります。以前は田の口城のところに記載していましたが蕃松院として独立したページにしました。というもの、蕃松院は田の口城の目印のようなものではなく、今回新たな情報を入手したのです。それはこの蕃松院に依田信蕃の墓と言われているものがあるとのことでした。考えてみれば蕃松院の蕃は依田信蕃の蕃と同じ字なのですね。それに蕃松院というのは依田信蕃の戒名とのことでした。ここでは以前来た時はあまり相手にしてくれなかった記憶があったのですが今回お寺の方は親切に色々なことを教えてくれました。まずお墓ですが本堂の裏山の少し登ったところのちょうど本堂の裏側あたりにあって、五輪の塔が2基並んでいるとのことでした。また位牌などはあるのか聞いてみたところこの蕃松院に存在するとのことで見せていただけるとのことでした。まずはお墓を見学させていただきました。向って本堂の左側から登ることができ、ちょうど本堂の裏手に五輪の塔が2つ並んでいました。すぐに分かると思います。そして下に下りてきてから本堂の中に案内していただき、位牌を見せていただくことにしました。本堂は大きくて立派でした。外観は古くて老朽化しており雨漏りもするとのことで改築の事前調査をしているとのことでした。そして依田信蕃の位牌を見せていただきました。また許可をもらって写真も撮らせて頂きました。彼の話では依田信蕃は一時期藤枝の田中城に居たことがあり、藤枝から学芸員の方が何度かこの蕃松院においでになってお話をお聞きしたりしたとのことでした。もちろん蕃松院は依田信蕃の時代よりも前から存在していましたが、信蕃死去の後、息子の代になって父である依田信蕃を弔うために修築して名前も戒名から取って蕃松院になったとのことでした。それ以前のお寺の名前については不明であるとのことでした。

依田信蕃の位牌



2004年04月03日

田の口城から下山した後、蕃松院に寄ってみましたが住職と思われる方に会うことができました。蕃松院に関する資料などがないか聞いてみましたがそのような資料はないとのことでした。蕃松院は田の口城との関係よりも龍岡城との関係が深いらしい話を教えてもらいましたが詳細は不明でした。蕃松院は今まで40年近く無人だったがこれからいろいろと直していくとおっしゃられていました。表の門の前の蕃松院由来が書かれている看板も夏頃には書き換えられるとのことでしたので後日また訪問したときに読んでみたいと思います。

 



2003年06月29日

蕃松院

田の口城の目印は蕃松院というお寺です。門の前には蕃松院由来という看板があるのですが残念ながら古くて読めません。


田の口城
芦田城

 

 
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