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大阪府大阪市

茶臼山


2015年02月28日

茶臼山歴史について
慶長3年、1598年8月18日、豊臣秀吉は63才で死去。死の直前、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば大物大臣である。さらに五奉行に石田三成、浅野長政、増田長盛り、前田玄以、長束正家をおいた。秀吉死去により、家臣石田三成、浅野長政軍は関ケ原で徳川家康との最後の戦となった。秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦いに出さず、豊臣家の家臣が次々と徳川家に付き、関ケ原で石田三成軍が敗北した。
そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた。大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった。大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では家康の本陣となり、夏の陣では幸村の激戦地となった。幸村は信州の田舎の住人で父にならって優れた戦略家であった。夏の陣は冬の陣のわずか4ヶ月後のことで、幸村はただちに国分道明寺に出陣した後、大阪城最後の決戦にのぞむ。主戦となったのは茶臼山から四天王寺西門あたりで幸村軍はすさまじい勢いで家康軍に殺到したが全員討ち死にし大阪城本丸炎上。秀頼、淀君討ち死に豊臣家一代にわたる栄華は夢と消えた。
(石碑記載文章より)

茶臼山古戦場跡
慶長20年5月7日[1615年5月7日]、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃ええと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大阪夏の陣の最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大阪夏の陣 天王寺口の戦い)
数では劣る真田隊ではあったが、高い戦意と捨て身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。
(看板資料より)

 

 
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