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静岡県富士市

医王寺

2014年01月18日

山本勘助のお墓
生誕地は富士市山本、明応2年吉野貞幸、安女の三男源助として生まれ、12才で三河国牛窪、大林左衛門の養子となり名前を勘助と改めた。
しかし実子が生まれたため、35才の時に離縁し山本勘助と名乗り再び修業の旅へと出る。
勘助52才の時、武田信玄の家来となり、天文15(1546)年7月に足軽大将になり八百貫の知行取りにまで出世したが、永禄4(1561)年9月10日第4回目川中島の戦で自らの啄木鳥戦法の裏をかかれ69才で戦死する。
吉野家に伝わる「徳川家康本領安堵状」によれば「天正11年に所領を安堵した」とあり、所領吉原の郷とは富士市中里天念寺(現在の中里1丁目辺り)である。
山本家が医王寺の檀家になったのは江戸時代の事で、山本家に勘助の祖父吉野貞久の墓があるのは所領であった事と貞次の子孫の家とも推察されます。
勘助の墓「鉄厳道一禅定門」は追慕供養の意味で建立したものです。合唱
平成19年NHK大河ドラマ「風林火山」では主人公として脚光を浴びました。
(石碑記載文章より)



2004年12月19日

山本勘助の墓

山本勘助の墓があるという医王寺は、竹取物語のかぐや姫伝説発祥の地で有名な竹採公園の近くにあるとのことだったので最初は竹採公園に行ってみました。駐車場に車を止めて道を歩いていた老人に医王寺の場所を聞きましたが歩いていけるような距離ではなさそうだったので再び車に乗って教えてもらった方向に行ってみました。先ほどの老人は医王寺は知っていましたがそこに山本勘助の墓があるということは知らないようでした。
途中再び場所を尋ねてやっとたどり着きました。確かどこかの本には、「本堂の裏の墓地に山本勘助の墓と伝えられる石仏がある」と書いてあったはずなので裏の墓地に行ってみました。しかしどれが山本勘助の墓なのか分からずそのまま坂を登って奥のほうまで行ってみました。すると偶然墓を掃除している老婆がいたので山本勘助の墓場所を聞いてみましたが、ちょうどすぐ裏側にありました。彼女は山本勘助がどういう人なのかも分からないようでした。小さな墓石には「鉄巖道一禅定門、永禄4年9月10日」と書かれていました。手前には勘助の墓と書かれた石碑と木片がありました。


山本勘助の墓を参拝した後、本堂に来てチャイムを鳴らしてみました。すると住職らしき方が出てこられてきたので、山本勘助の墓と医王寺の関係について聞きました。丁寧に詳しくお話していただき、更にご自分で調べられたことをまとめて後日看板を立てる際に使おうとされていた文章を頂くことができましたのでここで紹介させて頂きます。

山本勘助
時は文明、所は富士宮市山本の吉野家、長男貞宗には子供が無く、弟貞幸は我が長男を兄に譲り山本浪人と称して処々遍歴して、三河牛窪に落ち着くも、後に故郷に戻るが、吉野姓には戻らず、山本姓を通す。明応8年正月9日、貞幸の三男が生まる。源助と名づけ軍学・諸芸を学ばす。源助二十歳のとき牛窪の大林勘左衛門の養子となり、勘助と改名し、剣法の師範となるが、大林家に跡取が生まれると、遍歴の旅に出、やがて庵原安房守忠房の厄介になり、今川義元公に仕官を望んだが叶わず、甲斐武田信玄に召抱えられる。


愛知県豊川市牛久保(牛窪)の長谷寺にある山本勘助の墓の看板に書かれている内容では、山本勘助は牛久保で生まれたと書かれていましたが、こちらで聞いたお話しては、山本勘助は富士宮市山本で生まれたとのことでした。それ以降の話はどちらも同じで、いったんは大林勘左衛門の養子となるが武者修行中に実子ができたので大林家との縁を切ったとのこと。牛久保で聞いた話では今川から北条家を経て武田家に召抱えられたとのことでしたが、ここで聞いた話では今川家への仕官ができず武田家に召抱えられたとのことでした。


山本勘助の墓(川中島)
長谷寺(愛知県豊川市:山本勘助の墓)
宗泉院(山梨県韮崎市:山本勘助の供養塔)
山本勘助誕生地
胴合橋(川中島)
勘助宮(川中島)
山本勘助屋敷墓
傳山本勘蔵信供之墓
西明寺

 

 
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