←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県富士河口湖町

富士御室浅間神社

2010年01月01日

祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
当神社は、富士山中最古のお宮といわれ、北室浅間堂とも呼ばれていました。文武天皇即位3(699)年4月7日藤原義忠公によりまつられる。
延暦19(800)年噴火の為炎上したが、坂上田村麿卿(さかのうえのたむらまろ)えぞ征服の奉賛として造営され、後、幾たびかの修造があり、大永5(1525)年武田信虎公が修復、当社崇敬のあまり甲府古城と当社社門を南北相対向いしめ、以って朝夕遙拝の便を図り、武田家の祈願所となる。
武田信玄公自筆の信玄公ご息女安産祈願文、自刻の座像・武田坐不動明王をはじめ、富士北麓の古代記録『勝山記』等数多く残されている。
俵藤太藤原秀郷公、武田の祖新羅三郎義光公より始まる『やぶさめ』は大原七郷の神事として奉納されてきた。
勝山村は古い歴史のある村である。
(看板資料より)

本社本殿
一間社入母屋造 向拝唐破風 棟札一枚
本殿は、慶長17(1612)年5月、領主鳥居土佐守成次公が社殿再建、徳川家康・秀忠両公の奉納した棟札があり、要所に透かし彫りの彫刻をはめこんだ豪華豊麗な数少ない桃山時代の特色ある建物である。
もとは吉田口登山道沿いの富士山二合目にありましたが、昭和49年に現在地に移築される。
(看板資料より)

冨士御室浅間神社本殿

この神社は文武天皇の時代(699)藤原義忠公により、富士山に最初にまつられた神社と伝えられている。延暦19(800)年、貞観6(864)富士山大噴火により社殿が炎上し、幾度か再興したが炎上を繰り返した。
現在の本殿は、慶長17(1612)年時の領主鳥居土佐守成次公により富士山二合目に造営されたもので、構造は一間社入母屋造り、屋根は(当時)檜皮葺き、正面は軒唐破風付向拝を設け、正側面三方には高欄付緑が回り、背部両脇に彫刻をはめ込んだ脇障子が立っている。柱上部破風木等金箔飾り金具を取り付け、内陣扉廻りに透彫彫刻をはめ込み、内部の彩色も当初のものをよく残した桃山時代の特色をもち、建立年時の確実な豪壮優雅な建造物である。
慶長17(1612)年以来富士山二合目(旧登山道沿い)にあり、積雪風雨・霧等厳しい気象条件のなかでたびたび修理が行われ、保存に万全を期してきたが、昭和39年スバルラインの出現により旧登山道が荒廃を極めると共に、余りにも厳しい自然条件の中にあり、永久保存が至難であるため昭和48年現在地に移築復元し、昭和49年5月完工、重要文化財の指定を受け現在に至っている。
なお、冨士御室浅間神社は武田家の崇敬厚く、信虎公・信玄公・勝頼公の文書を始め、「勝山記」等県指定の文書が数多くあり、歴史民族資料館に展示されている。
(看板資料より)


場所は河口湖の南岸、うの島の対岸あたりでした。ここにも看板があって「武田信玄公安産祈願所」と書かれていました。重要文化財に指定されている本殿を参拝してその奥にあって参道を逆に歩き入口の鳥居のところまで行って再び戻ってきました。里宮には多くの人がいました。中で何らかの行事が行われていたよう音楽が聞こえてきました。武田信玄公御祈願所の石碑の横にあった受付のようなところで勝山歴史民俗資料館について聞いてみたのですが通常は閉まっていて、事前に役場に連絡しておくと見学することができるとのことでした。

富士御室浅間神社
@天正年中に武田信玄が再興した。
A小室浅間神社には武田信玄が手ずから親しく彫刻した自像がある。
(山梨県の武田氏伝説より)


武田信玄公ノ愛娘北條氏政ニ嫁シ出産ニ当リ信玄公ガ富士御室浅間神社ニ安産ノ神助ヲ二度ニ渉ッテ神願シ其ノ祈願文並ニ勝山記ハ今ニ至ル当社ニ伝ヘラレテイル古来神徳顕現ニシテ安産縁結子授リ子育ノ守護冤罪ヲ明ラカニシ給ウ神トシテ尊崇衆アマネシ讃ヘテ由緒ノ一端ヲ刻シテ萬世ニ伝ヘントス
(石碑記載文章より)

里宮

天徳2(958)年村上天皇が崇敬者の礼拝儀祭の便を図るため、老松繁る現在の場所へ建立。以来武田家、小山田家、徳川家からあつい信仰や手厚い庇護を受けて来た。現在の建物は明治22年に再建。河口湖に面し、喧騒と離れた静寂の中で歴史の風を感じられる。
(パンフレット資料より)

 


特殊神事(流鏑馬)
天慶3(940)年藤原秀郷が平将門の反乱を鎮定した帰途、戦勝を祝い御礼祭を執行し、流鏑馬を奉納したことに始まる。武田流流鏑馬神事は、出陣式から始まり、かぶら矢奉献などの儀式の後、太鼓の合図で次々に砂煙を上げて疾走する馬から矢を射る戦国絵巻さながらの流麗さである。
(パンフレット資料より)

御宝物(山梨県指定文化財)
武田晴信(信玄)願文2通
晴信(信玄)が武田・北条・今川の三国同盟のため北条氏政に嫁がした長女黄梅院の安産を願い当社に奉納した願文。願いが叶えば船津の関所を開放すると記している。黄梅院は氏政との間に北条家5代目当主となった氏直などを生んでいる。
勝山記
564年から1561年の間、法華宗の僧によって書き継がれたといわれ、山梨県の中世を研究する上で一級の資料である。ほぼ毎年のように戦や災害が起こっていたことと、そのために多くの人が犠牲になっていたことを克明に記している。その一方で川除(永禄2年)や用水路の開設(天文23年)など、この地域の人々が様々な開発によって生活の安定を保とうとしていたことがうかがえる。
古文書23通
信虎、信玄、勝頼の武田三代及び家臣をはじめ、武田家滅亡後統治した徳川の臣の印判状、許定書、指令状等。
(パンフレット資料より)

富士河口湖町指定文化財
武田不動明王(木像)
武田信玄目刻といわれ、戦国時代の武将らしさのある剛健な姿。
聖徳太子(木像)
聖徳太子は富士山最初の登山者といわれる。像は乗馬姿で江戸時代初期の作といわれている。
(パンフレット資料より)

 


黄梅院
 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→