←前のページ トップページ↑ 次のページ→

東京都八王子市

八王子城


2014年01月26日

八王子城の縄張
八王子城の構造
八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭です。城の構造は、山頂や尾根は平らに削りとって大小の曲輪を何段にも並べ、建物を作りました。谷間には盛土して平地とし、館を構え、麓には屋敷割をして城下町をつくりました。山中を流れる城山川は堀として利用し、橋を架けることによって、防御の大きな役割を担っていたと思われます。
八王子城跡は、約154haにもおよぶ広大な範囲が史跡の指定を受けていますが、その周辺にも当時の遺構が残っています。想像以上に大規模な縄張であったことがうかがえます。
八王子城は、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、いくつかの地区に分けられます。本丸など主郭を中心とした山頂付近とそれに続く尾根に造られた要害地区、御主殿跡など館と見られる居館地区、城下町となる根小屋地区に分けられます。その範囲は少なくとも、東西約2km、南北約1kmにおよんでいます。
現在でも、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切、土塁や通路の跡など、当時の遺構がよく残っています。八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡といえるでしょう。
(看板資料より)

要害地区
要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られています。山頂付近には本丸・松木・小宮曲輪があり、西側には詰の城と呼ばれる曲輪が残っています。合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧の入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2ヶ所に当時の井戸が残されています。
(看板資料より)

居館地区
城山川沿いの山腹に御主殿と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪と呼ばれる曲輪が残っています。御主殿跡は城主・北条氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。
御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです。
(看板資料より)

根小屋地区など
城山川に沿った、中宿付近が根小屋地区と呼ばれ、城への大手口として城下町の一部を形成していたと思われます。また、城山川の南側には細い尾根に連続して曲輪と堀切が並び、太鼓曲輪と呼ばれています。その他、小田野の曲輪群や、恩方方面の搦手口にも多くの遺構があり、城全体の守りを固めていたと思われます。
(看板資料より)

調査と整備
八王子城跡の調査は、昭和52(1977)年以来継続的に行われ、現在に至っています。発掘調査などの結果からは、大規模な普請(造成工事)が行われていること、石垣など当時としては最新の技術で造られていることなどがわかってきました。また、御主殿跡は15m以上も盛土して館を構えていることが確認されました。内部に建物の跡や石敷きの通路なども発見されています。
現在八王子市教育委員会では、これらの調査結果をもとに、史跡の保存と活用を目的に、当時の八王子城の再現を目指して整備を行っています。今後とも広く市民に公開し、八王子の大切な歴史遺産として、保存と活用を図っていく考えです。
(看板資料より)

八王子城の築城と落城
八王子城は、北条氏照によって築城された山城です。氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていました。その支配地は八王子はもとより、北は五日市・青梅・飯能・所沢の一帯、南は相模原・大和から横浜の一部にまで及んでいました。
氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12(1569)年武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれています。
築城の時期は明確ではありませんが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。
天正16(1588)年には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えました。
(看板資料より)

城主・北条氏照(1540?〜1590)
北条氏照は戦国時代の武将で、小田原に本拠を置く北条氏三代当主氏康の次男として生まれました。初め大石源三、その後北条陸奥守とも名乗っています。永禄の初め(1559年頃)、大石氏の後を継いで滝山城主となり、周辺に支配を拡大しました。その後栗橋城(茨城県五霞村)を勢力下におさめ、この城を拠点として北関東一帯の領土拡大にも活躍しました。
天正18(1590)年7月、小田原城の開城後、氏照は兄氏政とともに、豊臣秀吉から切腹を命じられて、その生涯を終えました。
(看板資料より)


橋台石垣と曳橋

城山川の両岸の斜面に、橋を架けるための橋台石垣が発見され、御主殿へわたる橋の存在が確認されました。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)をこわすことによって敵の侵入を防いだものと考えられます。橋台は検出した石垣の崩れた部分を新たに補い、想定復原したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが、史跡の景観に合うよう木造にしました。
(看板資料より)


御主殿虎口

城や曲輪の出入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてあります。御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cmで、約5mの幅をもっています。途中の2ヶ所の踊り場とともに、全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものです。
(看板資料より)


築城当時の石垣

この石垣は、土の中に400年間崩れずによく残っていたので、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。その特徴は、この城山山中から産出する砂岩を利用して、ひとつ一つ丁寧に積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。また、石垣の勾配が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。
(看板資料より)


冠木門跡


主殿

主殿は中心となる建物で、政治向きの行事が行われたと考えられます。広さは15間半×10間(29.4m×19.8m)で、折中門とよばれる玄関から入ります。大勢の人が集まる「広間」や、城主が座る「上段」などがあります。
建物は平屋建てで、屋根は瓦ではなく、板葺きか桧皮葺きと思われます。


庭園

会所と主殿の建物に囲まれた範囲に、大小の礫を配した庭と考えられる遺構が見つかりました。
北側に未発掘部分があるので、全体の規模や構造に不明な点はありますが、発掘調査で検出された姿に再現してあります。
会所から枯山水の庭を眺めながら、宴が開かれていたと思われます。


掘建物跡

土色に舗装した部分が建物の範囲を、着色した部分が柱の位置を示しています。掘建物とは、地面に柱穴を掘りくぼめ、そのまま柱を立てた建物のことです。
発掘調査時に、内部が空洞になった柱穴が16ヶ所検出されました。落城の際に柱の根元が残り、その後柱が腐り、空洞化したものと思われます。


塀跡

土色に舗装した部分が塀の範囲を、着色した部分が柱穴の位置を示しています。発掘調査時に、内部が空洞になった円形の柱穴が7ヶ所一列になって検出されました。落城の際に柱の根元が焼け残り、その後その柱が腐り、空洞化したものと思われます。


会所

会所は主殿で儀式を終えた後、宴会などを行った場所と考えられます。広さは11間×6間(20.9m×13.3m)で、北側が主殿と廊下でつながっています。会所の北東には庭園が造られています。
会所には、同時代の他の建物の例などを参考に床を再現しています。


殿の道の石垣

殿の道の石垣

殿の道の石垣


山王台

柵門跡の南側に位置する平坦地で、山王台と呼ばれています。名前の由来など詳しいことは不明です。


八王子権現

史跡八王子城跡 本丸周辺の曲輪
標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配置された要害部は、籠城のための施設と考えられます。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造となっています。
天正18(1590)年旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せました。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦しましたが、一日で落城してしまいました。激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があったようです。


松木曲輪

中山勘解由家範が守っていたといわれている曲輪です。中の丸とも二の丸とも呼ばれていました。近くには「坎井」と呼ばれる井戸があります。
天正18(1590)年6月23日に前田利家の軍勢と奮戦しましたが、多勢に無勢で防ぎきれなかったといわれています。この時家範の勇猛ぶりが徳川家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ、水戸徳川家の家老までになりました。


本丸跡

城の中心で最も重要な曲輪です。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられています。
ここは横地監物吉信が守っていたといわれています。


八王子神社と横地社

延喜13(913)年に華厳菩薩妙行が、山中で修業している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16(916)年に八王子権現を祀ったといわれています。
この伝説に基づいて、北条氏照は八王子城の築城にあたり八王子権現を城の守護神としました。これが「八王子」の地名の起源とされています。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られています。もともと東京都奥多摩町にありましたが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移しました。


小宮曲輪

狩野一庵が守っていたといわれている曲輪です。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていました。天正18(1590)年6月23日に上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされたといわれています。


柵門跡

 山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で、柵門跡と呼ばれています。名前の由来など詳しいことは不明です。


金子丸

金子三郎左衛門家重が守っていたといわれている曲輪です。尾根をひな壇に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫がされています。

 



2004年12月25日

八王子城の縄張
八王子城の構造
八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭です。城の構造は、山頂や尾根は平らに削りとって大小の曲輪を何段にも並べ、建物を作りました。谷間には盛土して平地とし、館を構え、麓には屋敷割をして城下町をつくりました。山中を流れる城山川は堀として利用し、橋を架けることによって、防御の大きな役割を担っていたと思われます。
八王子城跡は、約154haにもおよぶ広大な範囲が史跡の指定を受けていますが、その周辺にも当時の遺構が残っています。想像以上に大規模な縄張であったことがうかがえます。
八王子城は、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、いくつかの地区に分けられます。本丸など主郭を中心とした山頂付近とそれに続く尾根に造られた要害地区、御主殿跡など館と見られる居館地区、城下町となる根小屋地区に分けられます。その範囲は少なくとも、東西約2km、南北約1kmにおよんでいます。
現在でも、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切、土塁や通路の跡など、当時の遺構がよく残っています。八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡といえるでしょう。
(看板資料より)

要害地区
要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られています。山頂付近には本丸・松木・小宮曲輪があり、西側には詰の城と呼ばれる曲輪が残っています。合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧の入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2ヶ所に当時の井戸が残されています。
(看板資料より)

居館地区
城山川沿いの山腹に御主殿と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪と呼ばれる曲輪が残っています。御主殿跡は城主・北条氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。
御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです。
(看板資料より)

根小屋地区など
城山川に沿った、中宿付近が根小屋地区と呼ばれ、城への大手口として城下町の一部を形成していたと思われます。また、城山川の南側には細い尾根に連続して曲輪と堀切が並び、太鼓曲輪と呼ばれています。その他、小田野の曲輪群や、恩方方面の搦手口にも多くの遺構があり、城全体の守りを固めていたと思われます。
(看板資料より)

調査と整備
八王子城跡の調査は、昭和52(1977)年以来継続的に行われ、現在に至っています。発掘調査などの結果からは、大規模な普請(造成工事)が行われていること、石垣など当時としては最新の技術で造られていることなどがわかってきました。また、御主殿跡は15m以上も盛土して館を構えていることが確認されました。内部に建物の跡や石敷きの通路なども発見されています。
現在八王子市教育委員会では、これらの調査結果をもとに、史跡の保存と活用を目的に、当時の八王子城の再現を目指して整備を行っています。今後とも広く市民に公開し、八王子の大切な歴史遺産として、保存と活用を図っていく考えです。
(看板資料より)

八王子城の築城と落城
八王子城は、北条氏照によって築城された山城です。氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていました。その支配地は八王子はもとより、北は五日市・青梅・飯能・所沢の一帯、南は相模原・大和から横浜の一部にまで及んでいました。
氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12(1569)年武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれています。
築城の時期は明確ではありませんが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。
天正16(1588)年には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えました。
(看板資料より)

城主・北条氏照(1540?〜1590)
北条氏照は戦国時代の武将で、小田原に本拠を置く北条氏三代当主氏康の次男として生まれました。初め大石源三、その後北条陸奥守とも名乗っています。永禄の初め(1559年頃)、大石氏の後を継いで滝山城主となり、周辺に支配を拡大しました。その後栗橋城(茨城県五霞村)を勢力下におさめ、この城を拠点として北関東一帯の領土拡大にも活躍しました。
天正18(1590)年7月、小田原城の開城後、氏照は兄氏政とともに、豊臣秀吉から切腹を命じられて、その生涯を終えました。
(看板資料より)

麓の管理事務所にはトイレやパンフレットなども置いてあったので頂いてきました。管理事務所から右側に登っていくと本丸などがある要害地区に行かれ、左側に降っていくと御主殿などがある居館地区に行かれます。私は最初に山登りを選びました。鳥居をくぐって真っ直ぐ進むと旧道であり、左に行くと新道です。私は登りは新道、降りは旧道を歩きましたが旧道は道が悪く特に雨などのときは新道を行くのが賢明でしょう。途中見晴らしの良いところがあり写真を撮りました。話によれば天気の良い日には新宿の高層ビル群が見えるのだそうです。
北条氏照は武田信玄の小田原攻めの後にここに移ってきてここから小仏峠を越えてくるかもしれない武田軍の監視をしていたのでしょうか。

八王子神社


本丸跡

標高460メートルの山頂部が本丸と呼ばれており、城の中心部にあたります。落城の時、城主不在の本丸には、横地監物が守備していたといわれています。
(看板資料より)

八王子神社の裏に続いている山道を登ってしばらく歩いていくと本丸に到着します。八王子城全体の広大な規模の割には非常に狭い本丸でした。


旧道を降りてきましたが途中、左:松竹方面と右:霊園方面に道が分かれますが右側に下っていくのが正解です。今度は管理事務所か御主殿方面に向かいました。御主殿というのは城主の館があったところです。

古道・曳橋・御主殿
整備にあたって
八王子城は、天正18(1590)年に落城後、城として再生されることなく、現在に至るまで約400年間放置された状態にありました。しかし昭和26年、歴史的価値が高いものとして国の史跡に指定され、将来に伝える文化遺産として保存されることになりました。昭和52年度以来、継続的に発掘調査が実施され、地下から数多くの遺構や遺物が発見され、当時の城の構造や生活の様子が明らかになっています。近年、市民の歴史への関心は大変高く八王子城跡の整備公開が強く望まれていました。そこでこれらの調査結果をもとに多くの専門家の協力によって、当時の城の姿を少しでも再現するような整備計画ができあがりました。
調査結果と整備
城主北条氏照の居館と考えられる御主殿跡一帯と、古道と呼ばれる城山川右岸に残る道路跡の調査では、たいへん貴重な結果が得られました。道路跡からは、門跡や城山川に架かる橋の橋台石垣が、御主殿跡からは虎口(出入口)の石垣と石敷通路や階段が検出されました。また、当初予想もしなかった御主殿を囲む大規模な石垣も新たに発見されました。今回の整備工事では、これらの特徴的な調査結果をもとに、古道から御主殿までの当時の通路形態を可能な限り再現しようとしたものです。城山川右岸に続く道路を通り、曳橋と呼ばれる木橋で川を渡り、御主殿虎口の石敷階段を上り、門に至るまでの道順を整備したものです。
整備工事
今回の整備工事は、御主殿跡の虎口とそこに至る大手道を整備範囲としたものです。発見された石垣は長い間にゆがんだり欠落していますので、記録をとった後、当時の工法で積み直しさらに失われてしまった石材は補充して復元しています。橋や門、柵、塀は、はっきりした痕跡が発見されないため、想定して造っています。城跡の景観に合うよう、木造にしてあります。これらの材料には青森産のヒバを用いています。このような整備工事の目的は、当時の通路形態を再現することにより、八王子城の特徴的な城の守り方を理解してもらおうとするものです。
(看板資料より)

橋台石垣と曳橋

城山川の両岸の斜面に、橋を架けるための橋台石垣が発見され、御主殿へわたる橋の存在が確認されました。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)をこわすことによって敵の侵入を防いだものと考えられます。橋台は検出した石垣の崩れた部分を新たに補い、想定復原したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが、史跡の景観に合うよう木造にしました。
(看板資料より)


築城当時の石垣

この石垣は、土の中に400年間崩れずによく残っていたので、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。その特徴は、この城山山中から産出する砂岩を利用して、ひとつ一つ丁寧に積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。また、石垣の勾配が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。
(看板資料より)


御主殿虎口

城や曲輪の出入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてあります。御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cmで、約5mの幅をもっています。途中の2ヶ所の踊り場とともに、全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものです。
(看板資料より)


櫓門跡

この踊り場からは4つの建物礎石が発見されました。両側の石垣の下に、敷石の面より10cmほど高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は、東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.6mあります。想定される建物は、通路の重要な位置にあることから、物見や指揮をするための櫓門であったかもしれません。また礎石のそばには排水のための石組側溝も発見されています。この礎石や石組側溝、大部分の石垣や敷石は当時のものを利用しています。
(看板資料より)


御主殿跡

この場所は、江戸時代はじめに描かれた八王子城古図に「北条陸奥守殿御主殿」と記されており、城主北条氏照が居住していたところです。今から約400年前の築城時に造成され、周囲を石垣と土塁で囲んだ長方形の削平地となっています。特に東側は敵の進入に対し厳重に防備するため、石垣で造られた虎口で守られています。これまでの八王子市教育委員会の発掘調査では、平らな部分から規模の大きい建物跡等が確認されており、今後も継続的に調査し、その成果をもとに史跡整備を進める計画です。
(看板資料より)


御主殿の滝

豊臣秀吉の小田原攻めの時に、前田利家、上杉景勝らにより攻められ1日で落城してしまいますが、落城の際に城中の婦女子が身を投じたため、川の流れが三日三晩赤く染まったという伝説があるそうです。


八王子城に来てみれば分かりますが規模の大きな山城です。築城された時期が元亀から天正初めとのことですのでかなり遅い時代のものであり、この時期に築城された貴重な山城のひとつでしょう。武田軍の備えとして築かれたであろう八王子城は武田軍には攻められませんでしたが豊臣秀吉に攻められて落城してしまいます。攻撃側に加わっていた上杉景勝は御館の乱で北条氏政の弟で上杉家に養子にきていた景虎との後継者争いに勝利して上杉家を継いでおり、いわば昔からの宿敵である北条氏の城を攻めていたのですね。


滝山城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→