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東京都八王子市

北条氏照および家臣墓


2014年01月26日

北条氏照は、早雲の孫、氏康の子で、関東管領上杉家の老臣大石定久に代って永禄2(1559)年頃、滝山城主となったとされています。氏照は他に榎本、古河、栗橋など数城を併有したとされ、後北条市の勢力拡大に大きく寄与した人物でした。
武蔵国と甲斐国の境に大規模な山城である八王子城を築いたことでも有名です。天正18(1590)年の小田原攻めでは、豊臣秀吉の武将前田利家・上杉景勝らの軍勢に対する家臣中山勘解由らの防戦もむなしく八王子城は落城しました。兄氏政を助けて小田原城にいた氏照も、開城後兄とともに秀吉から切腹を命じられました。
現在ある氏照の供養塔は、勘解由の孫水戸藩家老中山信治が氏照死後100年忌の追善供養のために建てたものです。両脇には、家臣であった勘解由と信治自身の墓もあります。

 



2004年12月25日

都指定 北条氏照および家臣墓
北条氏照は氏康の子で陸奥守を称した。滝山城主大石定久の後を継ぎ、八王子に居住して、八王子、榎本、古河、栗橋、小山などの数城を併有し、戦国時代広く勢力をもった。永禄12(1569)年9月武田勢と戦い、さらには天正18(1590)年小田原攻めのとき豊臣秀吉の武将前田利家、上杉景勝と戦い、このとき落城、7月11日小田原で自刃した。享年46
。「青霄院殿透岳宗関大居士」。
この氏照の供養塔は百回忌追善の際建立したものである。両脇は中山家範および信治の墓で、家範は八王子落城の際、城とともに討死した中山勘解由家範である。中山信治は家範の孫で水戸藩家老中山備前守信治である。
(看板資料より)

八王子城に向う道を途中右に曲る狭い道がありその道を進むと北条氏照とその家臣の墓があります。北条氏照の墓は兄氏政とともに小田原駅近くにありますが、話によればそこから分骨したものではないかとも、あるいは供養塔ではないかとの話もあるとのことでした。
北条氏照公の墓は川を渡った先を左に階段を登っていくとすぐにありますがその奥にも幾つかの墓がありました。これらは家臣らの墓であり、この先にも道がありますが行き止まりになっています。


北条氏政・氏照の墓所
八王子城
滝山城
小田原城
十々里古戦場(廿里古戦場)
三増合戦場
浅利明神

 

 
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