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群馬県長野原町

羽根尾城

2013年01月13日

戦国時代に信濃源氏、滋野氏の末裔羽尾幸全入道は羽尾城を根拠として勢力を振るった。幸全の舎弟海野幸光(長門守)、輝幸(能登守)兄弟、ともに武勇を謳われた豪の者で、永禄9(1566)年真田幸隆により幸光は岩櫃城代、輝幸は沼田城代にそれぞれ任ぜられたが、兄弟を妬む者の陰謀により真田昌幸の誤解を受け、幸光は岩櫃城で、輝幸は迦葉山の女坂で自刃して果てた。時に天正9(1581)年11月29日、幸光75歳、輝幸72歳であった。
羽根尾城は梯郭式の城で僅かな平坦地が本丸で虎口は東南部にあり東側に腰曲輪がつく。
本丸の南に二の丸、更に三の丸が続く。
(看板資料より)

本丸下の堀切

羽根尾城跡
羽根尾城跡は、大字羽根尾城峯山の山頂にその遺跡を残している。雑木林に囲まれ北端に本丸の土居がみえ、その南に二の丸、更に一段低く三の丸が続いている。山麓西側には地獄窪、また北方堀切を距てて北方水という用水池がある。築城年月日は詳かでない。
この城は羽尾氏の本拠地であって、羽尾幸全入道とその弟海野幸光(長門守)、輝幸(能登守)の兄弟がここから出ている。戦国時代の羽尾氏はこの城にあって勢力を振い、草津の湯本、嬬恋の西窪鎌原両氏等と並んで吾妻を舞台に活躍していた。永禄6(1563)年長野原合戦では、海野兄弟は岩櫃城斉藤越前守方の大将として長野原城を攻略した。
その後、真田方についた羽尾氏は永禄9(1566)年真田幸隆より岩櫃攻略の戦功によって岩櫃城代に任ぜられた。幸隆の没後、子昌幸も海野兄弟を信頼して吾妻郡を一任したが、海野兄弟に対する誤解と地侍の手前から天正9(1581)年海野兄弟を急襲した。
長門守は岩櫃城にて自害し、能登守は迦葉山に退いたが、追手の多勢に敗れ自刃した。海野兄弟を失った羽尾城は天正11(1583)年昌幸の命により湯本三郎右衛門在城するようになったが、いつ頃廃城になったか詳かではない。
(看板資料より)

 


海野長門守の墓

 

 
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