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静岡県浜松市

堀川城

2005年02月11日

堀川城址
日本中が戦乱に明け暮れていた室町時代の終わりころ、この地方は今川氏の勢力下にあった。永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで義元が戦死した後、土地の人々はここに城砦を築き地名にちなんで堀川城と名づけ、刑部(細江町中川)にも刑部城を築き、徳川家康の遠江侵攻に備えた。永禄11(1568)年、刑部城を落とした家康は、翌12年3月27日に三千の軍を率いて堀川城に攻め入った。男も女も戦える者およそ二千人は、すべて城に立て籠もって抵抗したが、みるまに落城した。この戦いに加わった大久保彦左衛門が書いた三河物語には「男女ともなで切りにぞしたりける。」とある。残った人々もことごとく首を打たれた。3月27日の戦いでおよそ千人、9月9日に七百人余、当時の住民の半数以上の犠牲者を出したと伝えられる。
(看板資料より)


刑部城

 

 
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