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和歌山県高野町

小田原北条家墓所


2005年08月03日

小田原北條氏の興亡(1495〜1590)
小田原北條氏は、伊豆韮山城主伊勢新九郎早雲が明応4(1495)年箱根山を東に越え、小田原城に大森氏を逐って西相模に進出し、その子氏綱が小田原を根城としたのが興りである。氏綱は姓を北條と改め、関東に割拠する豪族、名流と結び、或いは攻略し秀れた経綸をもって武蔵国迄版図を拡げた。3代氏康は父祖の建業の精神、仁慈を旨とした王道を推進し、富国強兵の実を挙げ、4代氏政の間に略々関東一円を治める大々名となった。
然るに5代氏直の天正18(1590)年に至り、天下統一の征戦を進める豊臣秀吉の軍門に降り、ここに小田原北條氏は5代95年に及ぶ治世の幕を閉じた。
氏直は、秀吉に高野山高室院に蟄居を命ぜられ、翌年伯耆一国で大名に復帰することを約束されたが、実現寸前の天正19(1591)年11月4日高野山麓の天野の地で病歿した。秀吉は替って氏政の弟北條氏規を河内狭山に封じ、併せて宗家の継承を命じた。狭山北條家は明治に至って華族に列せられている。

早雲氏綱父子の行実
始祖早雲(1432〜1519)は備中(岡山県井原市)高越城に生る。父伊勢備中守盛貞、母同苗伊勢守貞国女、4男1女の2男である。若年上京して禅門に参入、諸学を修め、長じて将軍足利氏の側近に仕えた。
のち甥の守護大名今川氏親補佐のため駿河に下り、時運に乗じ小田原城を収め、関東進出の拠点を築いた。早雲は清廉潔白にして慈悲心に富み、領民愛護に徹し、求道的な生涯を貫いた。早雲寺殿21箇条の家訓には早雲の豊かな人間性が余すなく伝えられている。
二代氏綱(1487〜1541)は母小笠原氏。永正15年家督を継承北條を名乗り小田原に居城、弟長綱(幻庵)に内政を委ね、旧体制下の関東の民衆解放への戦を進めた。氏綱は沈着果敢、義を専らにして信仰心厚く、生涯に再興、創建した社寺は、箱根権現、鶴岡八幡をはじめ十指に余る。夫人は養珠院、後室は関白近衛尚通の姫である。
氏綱に遺訓5箇条があり、幻庵には24条の庭訓があって世に名高い。
戦国大名北條氏の他に比類なき家風の生まれた所以がここに偲ばれる。北條氏綱公生誕500年を記念し之を建つ。
(石碑文章より)

高野山奥の院の参道を歩いて行くと、武田信玄、勝頼の墓にたどり着く前に、参道の左側に小田原北条家墓所の石碑がありました。ここは入口で、中に進んでいくとすぐに小田原北条家墓所があります。立派な石碑に上にあるような文章が記載されていました。お墓自体は武田信玄、勝頼の墓よりも更に小さいものでしたがたくさん並んでいました。


北条氏政・氏照の墓所
早雲寺
源立寺
北条氏照および家臣墓
正龍寺

 

 
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