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山梨県甲府市

法泉寺

2013年09月01日

法泉寺鐘楼門

 
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この鐘楼門は江戸時代初期(1636年)に建てられたもので、素木が用いられている。木鼻の構造や唐草模様などは江戸時代初期の特徴的手法をよく物語っている。内部のつり下げられた銅鐘は、明治時代の廃仏毀釈の影響で取り去られたものを近年新たに鋳造したものである。
(看板資料より)

夢窓国師坐像
寄木造り、玉眼嵌入、彩色像、像高43cm、袖張58cm。本像は肖像彫刻であり、夢窓国師の青年時代の姿を彫刻したものといわれている。鎌倉時代末期の作と推定される貴重なものである。
(看板資料より)

釈迦如来坐像
寄木造り、玉眼嵌入、彩色像、像高53cm、漆張38cm。本像は寺伝に弥勒菩薩と称せられているが、むしろ宝冠の釈迦または華厳の釈迦といわれるものに近い。鎌倉時代末期の作と推定される貴重なものである。
(看板資料より)


本堂

南北朝時代の初期に武田氏中興の祖といわれる甲斐の国守護武田信武が開基となり、月舟周勲がその師である夢窓国師を迎えて建てたのが法泉禅寺である。
武田信玄は先祖ゆかりの法泉寺を甲府五山のひとつに加えて手厚く保護を与えて境内の整備を行いました。
勝頼とその子信勝は天目山で自害し、その首は京都に送られ、三条河原にさらされました。武田家より厚い帰依を受けていた京都妙心寺の南化和尚はこの首をもらい受けて同寺にある信玄の墓の脇に手厚く埋葬しました。この時法泉寺の僧が同席しており、勝頼父子の歯髪をもらい請け、法泉寺に持ち帰り葬りました。勝頼は生前に墓所を定めていなかったため、徳川家康は本寺を勝頼の菩提寺と定めるとともに、快岳和尚を中興開山に位置付けたと伝えられています。
(看板資料より)

法泉寺古文書
武田信玄判物一点、武田勝頼判物三点、徳川家康判物一点、徳川家康奉行判物二点、伊那熊蔵黒印状一点、加藤光泰判物一点、浅野長政判物一点、平岩親吉判物一点、歴代領主等の古文書が一括保存されていることは類例がなく貴重である。
(看板資料より)


法泉寺の経蔵及び内部の輪蔵

一、経蔵
桁行8.60メートル・梁間9.43メートル・屋根方行造・桟瓦葺・二軒疎?・塗篭壁・文化十年建立。
二、輪蔵
木造八角輪蔵・総高約4.5メートル・内部に鉄眼版一切経を収蔵する。
輪蔵は、中国梁の時代善慧大士(博大士ともいう)が無字無学の人々のために、これを一施すれば看読とその功を同じからしめるということで創設したといわれる。輪蔵は多くの経巻をまとめて収蔵するのに大変便利な書庫であるが、今日では次々と失われ、本県にも数が少なく、その希少価値はまことに高く貴重なものである。
(看板資料より)


武田勝頼の墓

墓域は、横2.6メートル、縦2.7メートル、域内に宝篋印塔と宝珠形供養塔各一基があり、山桜が植えられている。甲斐武田氏最後の国主となった勝頼の墓は甲府市内では大泉寺に祖父信虎の墓と並んで父信玄の墓とともに在る。しかし勝頼独自の墓としては、この墓以外にはみられず、法泉寺が江戸時代の初めから幕府によって、勝頼菩提所として認められるようになったゆえんである。なお当寺は、武田勝頼画像も所蔵している。
(看板資料より)


武田信武の墓

墓域は、横2.6メートル、縦1.7メートル、城内に宝篋印塔一基、五輪塔ニ基、無縫塔一基がある。法泉寺は甲斐武田氏の総領武田信武の開創で、信武は建武2(1335)年に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしたとき、これに応じて安芸(広島県西部)に挙兵し、以降尊氏の忠実な武将として終始行動を共にしたため、尊氏の信任が厚くその姪を妻として安芸・若狭を管掌、やがて甲斐の守護も兼ね、後世武田氏中興の祖とあがめられるに至った。信武は、尊氏の死の翌年の延文4(1359)年7月13日に死去し、法名を清浄心院殿雪山照公禅定門という。開創の縁をもって、この法泉寺に墓域が営まれている。
(看板資料より)

 



2005年01月09日

南北朝時代の初期に武田氏中興の祖といわれる甲斐の国守護武田信武が開基となり、月舟周勲がその師である夢窓国師を迎えて建てたのが法泉禅寺である。
武田信玄は先祖ゆかりの法泉寺を甲府五山のひとつに加えて手厚く保護を与えて境内の整備を行いました。
勝頼とその子信勝は天目山で自害し、その首は京都に送られ、三条河原にさらされました。武田家より厚い帰依を受けていた京都妙心寺の南化和尚はこの首をもらい受けて同寺にある信玄の墓の脇に手厚く埋葬しました。この時法泉寺の僧が同席しており、勝頼父子の歯髪をもらい請け、法泉寺に持ち帰り葬りました。勝頼は生前に墓所を定めていなかったため、徳川家康は本寺を勝頼の菩提寺と定めるとともに、快岳和尚を中興開山に位置付けたと伝えられています。
(看板資料より)

法泉寺古文書
武田信玄判物
武田勝頼判物(三点)
徳川家康判物
徳川家康奉行判物(二点)
伊奈熊蔵黒印状
加藤光泰判物
浅野長政判物
平岩親吉判物
以上11点、中世末から近世初頭にかけて、実質的に甲斐の国を治めていた人々の古文書が保存されています。
(看板資料より)

夢窓国師坐像
夢窓国師(夢窓疎石国師)は伊勢の国(三重県)に生まれ、6才から約20年間甲斐の国に住んだといわれています。坐像は鎌倉時代末期の作品で、国師の少年期の肖像彫刻です。寄木造・彩色・玉眼の像で、高さは48cmをはかります。
(看板資料より)

釈迦如来坐像
寄木造・彩色・玉眼の釈迦如来坐像で、鎌倉時代末期の作品です。像の高さは53センチを測ります。当寺では弥勒菩薩像と伝えられていますが、宝冠の釈迦あるいは華厳の釈迦と呼ばれる形式のもので、ふくよかな顔つきとしなやかな肩のラインを表現しています。
(看板資料より)

甲府五山
戦国武将武田信玄は臨済宗に深く帰依し、京都五山・鎌倉五山の制度にならって、『甲府(府中)五山』を定めました。その五寺は、法泉寺、長禅寺、東光寺、円光院、能成寺です。
信玄は広く仏教を信仰し、宗旨のいかんを問わず、寺院・僧侶を崇敬保護したことが知られています。とりわけ臨済宗に対する帰依は深く、平素より多くの禅僧と親交を深めていました。諸国から禅宗を招いて師とし、その教えを民政や軍法に活かしたのです。
代表的な高僧は、五山派の惟高妙安、策彦周良、妙心寺(開山)派の岐秀元伯、快川紹喜らです。特に岐秀は信玄の人格形成に深い影響を及ぼしたといわれ、信玄剃髪の際に大導師もつとめました。
(看板資料より)

石造井戸側
安山岩製の一石刳貫式(いっせきくりぬきしき)と呼ばれる井戸側で、高さ52.5センチを測ります。「大器叟置法泉慶安二己丑季」との銘文から、江戸時代前期に置かれたことがわかります。井戸側の三面には武田菱が陽刻され、また厚さ50センチを超える安山岩をくり貫く技術は歴史的価値とともに民具としても貴重なものです。
(看板資料より)


法泉寺鐘楼門

この鐘楼門は江戸時代初期(1636年)に建てられたもので、素木が用いられている。木鼻の構造や唐草模様などは江戸時代初期の特徴的手法をよく物語っている。内部のつり下げられた銅鐘は、明治時代の廃仏毀釈の影響で取り去られたものを近年新たに鋳造したものである。
(看板資料より)


武田信武の墓

墓域は、横2.6メートル、縦1.7メートル、城内に宝篋印塔一基、五輪塔ニ基、無縫塔一基がある。法泉寺は甲斐武田氏の総領武田信武の開創で、信武は建武2(1335)年に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしたとき、これに応じて安芸(広島県西部)に挙兵し、以降尊氏の忠実な武将として終始行動を共にしたため、尊氏の信任が厚くその姪を妻として安芸・若狭を管掌、やがて甲斐の守護も兼ね、後世武田氏中興の祖とあがめられるに至った。信武は、尊氏の死の翌年の延文4(1359)年7月13日に死去し、法名を清浄心院殿雪山照公禅定門という。開創の縁をもって、この法泉寺に墓域が営まれている。
(看板資料より)

武田信武
武田信武は、甲斐源氏の祖源義光から数えて10代目、武田信玄の9代前にあたる人です。甲斐とともに安芸(広島県)の守護職を兼ね、鎌倉時代から南北朝時代に活躍しました。後に、安芸武田氏、若狭(福井県)武田氏が信武の子孫から別れ、武田氏中興の祖と称されました。
信武は、建武2(1335)年足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した時、これに応じて挙兵し、以降尊氏の忠実な武将として終始行動を共にしました。尊氏からは厚い信任を受けており、その姪を正妻に迎えています。尊氏が没すると剃髪して出家し、「あずさ弓 もとの姿は引きかへぬ 入るべき山のかくれかもかな」と詠じております。信武は歌人としても知られており、『新千載和歌集』や『新拾遺集』にその名を残しています。
(看板資料より)


武田勝頼の墓

墓域は、横2.6メートル、縦2.7メートル、域内に宝篋印塔と宝珠形供養塔各一基があり、山桜が植えられている。甲斐武田氏最後の国主となった勝頼の墓は甲府市内では大泉寺に祖父信虎の墓と並んで父信玄の墓とともに在る。しかし勝頼独自の墓としては、この墓以外にはみられず、法泉寺が江戸時代の初めから幕府によって、勝頼菩提所として認められるようになったゆえんである。なお当寺は、武田勝頼画像も所蔵している。
(看板資料より)

法泉寺第三世快岳禅師が京都から武田勝頼の首級をもたらして密にこの地に埋め、その標として山櫻を植えたのがこの櫻である。この山櫻は近郊に自生するものとは種類が異なり奈良の吉野山のものと同種のものである。
(看板資料より)

武田勝頼
武田勝頼は、天文15(1546)年信玄の四男として誕生しました。母は諏訪頼重の娘、幼名を伊那四郎、元服して諏訪神四郎勝頼と名乗ります。信玄は7人の男子中6人に、甲斐源氏、武田一族の証として踏襲されてきた「信」の字を付けて命名しました。例外が四男の勝頼ですが、これは諏訪氏の名跡を継がせるためだといわれています。皮肉なことに長男は自害し、次男が盲目、三男は早世したため、唯一「信」の字がつかない勝頼が武田の家督を継いで武田勝頼となりました。
勝頼は、信玄に負けず劣らずの勇敢な武将でした。駿河の蒲原城攻めでは、先陣を切って奮戦し、信玄でさえ攻め落とせなかった高天神城をも落城させています。しかし、父信玄の死後、長篠の合戦での敗退戦力は低下し、味方の寝返りなど、武田家は急速に衰退していきました。韮崎に新府城を築いて巻き返しを図りましたが、時流には逆らえず、織田・徳川連合軍の前に、天目山にてあえない最後を遂げています。
(看板資料より)

 



2001年02月18日

法泉寺は足利時代初期の創建で甲府五山の一つである。開山は夢窓国師、開基は武田信武といわれ、夢窓国師の築庭がある。また武田勝頼の菩提寺でもあり、勝頼の首級が葬られている。
(看板資料より)


武田信武の墓

法泉寺の開基は武田信武といわれている。信武は建武2年(1335)に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしたときに安芸国でこれに呼応して挙兵し、その後尊氏の武将として終始行動を共にしたため尊氏の信任厚く、尊氏の姪を妻として安芸、若狭、甲斐を治めた。
(看板資料より)


武田勝頼の墓

法泉寺第三世快岳禅師が京都から武田勝頼の首級をもたらして密かにこの地に埋め、その標として山桜を植えたものが今も現存している。ここにある山桜は甲斐のものと異なり奈良の吉野山のものと同種のものである。
武田勝頼の墓は甲府市内では大泉寺に信玄、信虎とともに三代並んでいるものがあるが、勝頼だけのものは法泉寺にしかなく、ここ法泉寺が江戸時代初期から幕府によって勝頼菩提所として認められるようになった。
(看板資料より)

武田勝頼の首が京都でさらしてあることを知った法泉寺の快岳和尚は京都に行ってその様子を確認したが厳重な警戒がなされていて近づくことができなかった。京都の妙心寺には以前織田・武田の講和に尽力した南化和尚がいたのでこの和尚に頼んで勝頼の首を渡してもらうことができたので妙心寺で葬儀を行った後、甲州へ勝頼の首を持ち帰った。
しかし当時法泉寺は織田方の軍事拠点になっていたので近づくことができず、しかたなく森の奥に隠れ住んでいた。その後間もなく織田信長が本能寺の変で討たれたので、快岳和尚は法泉寺に帰って勝頼の首を埋めて桜の木を植えたということです。現在法泉寺の勝頼の墓にある桜の木は7代目の木とのこと。


景徳院
大泉寺

 
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