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山梨県甲州市

景徳院

2007年12月01日

没頭地蔵

旧大和村の近くまで来たので久しぶりに景徳院に寄ってみることにしました。前回来たときはちょうど1年くらい前で寒い時期でした。その時は既に甲将殿の裏にあった武田勝頼の墓がなくなっていて工事中だったのを覚えています。住職の方にまた温かくなったら来るようにと言われていたのですがまた寒い時期に来てしまいました。いつもは山門の方から登っていくのですが、今回は没頭地蔵尊の方から登って行きました。没頭地蔵尊は扉が開けられていて、お花が供えられてきれいになっていました。ここで参拝した後そのまま坂を登り切ると甲将殿の裏は未だにビニールシートで覆われていました。その代わり補修が終了したと思われる武田勝頼、信勝、北条夫人の墓などは甲将殿の左前あたりに移設されていました。甲将殿の裏が調査中の間はしばらくここに置かれるとのことでした。以前は建物のすぐ裏側にあったので見づらかったのですがこうやって正面から見るとずいぶん立派な墓であったことを実感しました。補修したためか以前より少し白っぽく感じました。その後本堂で参拝した後に、パンフレットを購入するため庫裡に声をかけてみたら住職の方が出てきてくれました。100円でパンフレットを購入した後に、武田勝頼の墓のことでお話を聞いてみたら、本殿に入って右側に資料等があるので入って見るように勧められました。さっそく本堂に上がらせてもらって右側の部屋の襖を空けてみると、武田勝頼の墓の調査時の様子の資料などが保管されていました。

武田勝頼の墓


武田菱水瓶

日川渓谷の高台に、織田軍を迎え撃つ勝頼主従の武田軍が、この水瓶で末期の水を交わしたと伝えられる。悲運の武田一族を見届けた一品。
(説明文章より)



2007年01月07日

武田勝頼親子の位牌

今回景徳院に寄る予定は無かったのですが、鞍掛、血洗沢を見学した際や、旧大和村役場に寄って資料を頂いた際にも景徳院に寄ることを勧められたのでこれも何かの縁と思って立ち寄ることにしました。以前訪れた時には入口付近の補修工事をしていましたがすっかりきれいになっていました。相変わらず雪が降っていて風も強くなりました。運良く住職がおられたのでお話を聞かせてもらえるかどうか聞いてみたところ、本堂に来るようにいわれたので本堂に行きました。ここには何度も来ましたが本堂に入ったのは初めてでした。簡単に景徳院ができた由来についてのお話をお聞きすることができました。その後仏壇中央にある、武田勝頼(中央)、武田信勝(左)、北条夫人(右)それぞれの位牌を見せてもらいました。写真を撮っても良いということでしたので撮らせてもらいました。


家臣達の位牌

また、仏壇の右奥には武田勝頼親子とともに殉死したといわれる家臣達の位牌もあったのでこちらの写真も撮らせていただきました。貫名新蔵、多田久蔵、秋山民部、秋山源三郎、小原丹後守などの名前を確認することができました。
突然立ち寄ることになりましたが、やっぱり来てみてよかったです。位牌は武田勝頼の墓の前にある甲将殿の中にあると聞いていましたが住職の話によれば最近は本堂で管理されているとのことでした。また温かくなってから来れば色々説明してくれるとのことでした。
本堂を出てから甲将殿の方に行ってみましたが、なんと甲将殿の裏にあった武田勝頼の墓がなくなっていました。工事中で立ち入り禁止のような感じで重機もあったのでまだ移動したばかりのような感じでした。さきほど頂いたパンフレットに書いてあった電話番号に電話して住職に聞いて見たところ、解体補修工事をしているとのことでした。武田勝頼の墓は確かに一部欠けていて少し恐いイメージでしたがすっかりきれいになってしまうのでしょうか? また温かくなったら是非立ち寄りたいですね。

 



2005年05月29日

天童山景徳院堂宇再建の趣意
天童山景徳院は武田勝頼公一族菩提のため徳川家康公が建立を命じ、天正16年に開創したものであるが弘化2年と明治27年の再度に亘る大火のため往時の絢爛高閣伽藍は僅かに山門を残して灰燼に帰し、爾来幾度か再建を企てたがその成果を得ず幾星霜の間仮本堂を建て雨露を凌いでいたのである。
武田勝頼公は新羅三郎義光以来連綿28代続いた甲斐の国主として父信玄公の偉業を享け青雲の志を懐きながらも武運拙く天正10年3月11日に37才の若き齢を一期としてこの地において自刃し、武田の歴史は遂に閉ざされたのであるが、有為転変は戦国の世の常とは申しながらもこの地に佇立して武田氏一族の哀史を追憶するとき誰か悲涙の情を禁じ得ないのである。
先般山梨県当局も境内を史跡に指定し、これが保存についての配慮をなされたので郷中の関係者が相謀り堂宇の再建を画して武田氏一族の終焉地に相応しい境域とすることを希い在郷の有縁無縁の篤志は申すに及ばず峡外の諸彦にも格別のご高配を賜り茲に本願の一画を達成し得たのである。
冀くは遍くこの趣意を伝承され悠久の保全に意を注がれんことを。
(石碑文章より)

今まで景徳院には何度も訪れましたがいずれも夕方頃になってしまっていました。今回のように昼の明るい時間帯に訪れたのは初めてかもしれません。今回分かったのは私は山門より奥に行ったことがなかったということでした。山門を通り過ぎて本堂まで行ってみると、勝頼の子である武田信勝が盾無の鎧を着たという旗竪松があり、本堂の裏には庭園があり岩舟地蔵などもありました。本堂の左側を訪ねて、景徳院の案内と日付入りの御朱印を購入した。


旗竪松

勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を行いし処。
(看板資料より)


長篠武田墓参団20回記念

本堂の右側に、長篠武田墓参団20回記念と書かれた石碑がありました。石碑には鳳来町文化協会という文字が刻まれていました。そういえば設楽原、長篠古戦場の内藤昌豊陣地に大和村特産の甲斐鞍馬石で建立した石碑があったことを思い出しました。長篠古戦場と大和村との交流を感じさせるものです。


岩舟地蔵


景徳院山門

建立当時(天正16年)境内に諸堂を備えていたが焼失し、山門のみが幾多の火災を免れ当時の面影を残しています。
(看板資料より)


武田勝頼公生害石

北条夫人生害石

武田信勝公生害石


武田勝頼の墓

中央が武田勝頼、右側が北条夫人、左側が武田信勝の墓であり、その両側には殉難者たちの墓があります。景徳院の武田勝頼の墓は甲将殿という建物のすぐ裏側にあるのでなかなか写真が撮れなかったのですが、今回は甲将殿に入らせてもらって通路の部分から撮影させてもらいました。



2003年08月30日

景徳院境内
本史跡は、天正10年3月11日徳川・織田の連合軍に攻められた武田勝頼一族郎党約50名が自害した田野の地である。
武田勝頼は、天正元年父信玄の跡をついで武田氏の当主となった。宿敵織田信長・徳川家康と、長篠において戦ったが利あらず敗退した。その後新府城を築き再挙を計ったが、天正10年3月再度織田・徳川軍に侵攻され、小山田氏の岩殿城に走ったがそむかれたので、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき、主従はここに自害して果てたのである。
その後家康入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため、僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。現在本境内には、県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。
(看板資料より)

天正10(1582)年3月11日武田勝頼公一族は、織田、徳川の連合軍と激戦の末、武田家の歴史を閉じた。同年7月徳川家康公が入国の際、家臣尾畑勘兵衛に命じて建立されたのがこの寺である。
境内には、勝頼公、北条夫人、信勝公が自害した生害石があり、甲将殿の裏には勝頼公をはじめ将士の墓がある。又寺の内外には、鳥居畑古戦場旗立ての松、土屋惣蔵片手切等がある。
(看板資料より)

本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約50名が自害した地である。
勝頼は武田信玄の第4子として天文15(1546)年に生まれた。母は諏訪頼重の女である。天正元年28歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正3年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正10(1582)年織田、徳川連合軍の国内侵略を許した。
勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年3月3日居城を自らの手で焼き郡内の岩殿城に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく駒飼から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最後をとげた。時に天正10年3月11日であった。
その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将士の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内膳友信の弟、広厳院第7世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿)の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。
境内には世子信勝に「かん甲」の礼を行った場所といわれる「旗竪て松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。
(看板資料より)


甲将殿

辞世の歌

勝頼夫人
黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒

勝頼公
おぼろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端

信勝公
あだに見よ誰も嵐の桜花咲き散るほどの春の夜の夢

武田勝頼の墓
武田勝頼は武田信玄の第4子で、信玄の没後その遺志をつぎ天下統一のため努力したが、天正3(1575)年5月長篠の戦いに敗れてから幾度かの戦いにも武運つたなく、天正10年3月11日この地において、織田・徳川の連合軍と戦い一族と共に自害して果てた。時に勝頼37歳、夫人19歳、信勝16歳であった。
新羅三郎義光以来28代495年の武田家の歴史もここに終りを告げたのであるが、同年7月徳川家康が入国のとき、勝頼以下約50名の菩提のため田野寺を建てた。これが現在の景徳院である。
墓の位置及び法名は次のとおりである。
中央 勝頼   景徳院殿頼山勝公大居士
右  北条夫人 北条院殿模安妙相大禅定尼
左  信勝   法雲院殿甲厳勝信大居士
(看板資料より)


勝頼親子が自害した場所といわれている生害石

北条夫人生害石

武田勝頼公生害石

武田信勝公生害石


没頭地蔵尊

この石仏は首無地蔵といわれ勝頼公子夫人の遺骸を葬った所です。


1999年09月05日

勝頼、信勝は天目山で最後を遂げるが、勝頼、その嫡男である信勝、そして勝頼夫人の墓があるのがこの景徳院である。勝頼夫人はこの当時敵となってしまっている北条氏政の妹である。勝頼婦人は兄である氏政に攻め滅ぼされてしまうのである。

武田勝頼の墓


法泉寺
武田信玄・勝頼供養塔
大泉寺

 

 
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