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山梨県甲府市

一蓮寺

2013年09月01日

 
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現在の甲府城跡地(舞鶴城公園)は、一条小山と呼ばれ一条忠頼の居館があった。しかし後に一条忠頼は源頼朝に謀殺されてしまい、忠頼夫人は出家してその居館を尼寺とした。その後100余年後の正和元(1312)年、甲斐守護職一条時信は、巡行していた清浄光寺(神奈川県藤沢市:別名遊行寺ともいう)の真教上人に深く敬仰し、弟である小太郎宗時を出家させて弟子にし、時宗の寺に改めた。その宗時を開山として一条道場一蓮寺と称したのが始まりである。
武田家が滅んだ後、徳川家康が甲斐を占領すると一蓮寺があった一条小山に甲府城が築かれることになり、文禄4(1595)年に現在の地に移された。
(石板資料より)

 



2004年08月14日

現在の甲府城跡地(舞鶴城公園)は、一条小山と呼ばれ一条忠頼の居館があった。しかし後に一条忠頼は源頼朝に謀殺されてしまい、忠頼夫人は出家してその居館を尼寺とした。その後100余年後の正和元(1312)年、甲斐守護職一条時信は、巡行していた清浄光寺(神奈川県藤沢市:別名遊行寺ともいう)の真教上人に深く敬仰し、弟である小太郎宗時を出家させて弟子にし、時宗の寺に改めた。その宗時を開山として一条道場一蓮寺と称したのが始まりである。
武田家が滅んだ後、徳川家康が甲斐を占領すると一蓮寺があった一条小山に甲府城が築かれることになり、文禄4(1595)年に現在の地に移された。
(石板資料より)


一蓮寺はもともと清浄光寺(遊行寺)の末寺だったが、現在は本山を離れているそうである。そういえば遊行寺にも黒門があり、入口の雰囲気はよく似ている。

紙本著色渡唐天神像
天神(菅原道真)が唐へ渡り、一夜にして禅の奥義を悟ったという天神信仰に基づき描かれた渡唐天神像のうち、梅の木とともに束帯姿の菅公を描いたものである。作者は、天神を厚く信仰し、北野天神を遥拝して領国の平安を祈った武田信玄とも伝えられているが確実に証明するものは残されていない。しかし広永期の画風の面影を伝えるその画風がら貴重な絵画である。
(看板資料より)

絹本着色柳沢吉保自賛画像
柳沢家は現武川村の出身で、徳川幕府5代将軍綱吉の家臣で最高幹部にあたる側用人として活躍した。この画像は側用人に大出世した記念として絵師狩野常信に三枚描かせたうちの一枚で、吉保の祖先が建てた一蓮寺に自賛、押印の上奉納したものである。縦144cm、横92cm、衣冠姿の画像は、将軍の厚い信頼を得て、忠実に仕えた吉保の面影を伝える貴重なものである。
(看板資料より)

廃般舟院墓石群外出土品一式
五輪塔70基、宝篋印塔六基外出土品一式は昭和56年9月に甲府市の般舟院跡地より出土したものである。般舟院は武田時代には一条小山(現甲府城跡)にあった時宗道場一蓮寺36院の一つであり、甲府城築城に当り、今の伊勢地区に移転し、明治初期に廃寺となり、荒川のたびたびの氾濫で跡地も埋没してしまった。墓石の形式は古く、おおむね南北朝から江戸時代のものとみられ、その時代および数において県下に類例がない。
(看板資料より)

 
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