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山梨県甲府市

遠光寺

2013年09月01日

 
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遠光寺略縁起
当山は甲斐源氏の祖・新羅三郎義光より三代、加賀美次郎遠光公が深く仏法に帰依して、山梨郡小曲村(甲府市小曲町)に一寺を建立し、真言宗感応山遠光寺と称した。建歴元(1214)年のことと伝える。
はじめ当山は小曲の地に建立されたが、水害に悩まされ、蓬沢の地に移転、この地も水害が多く天文年間(1532〜1555)に城南の大畑村すなわち現在の地に移転し、村名も遠光寺村と改めた。
開山には臨済宗の祖千光国師栄西を開山に請じたが、栄西は老齢を理由に弟子の宗明を入山させた。
開山の宗明は、日蓮聖人が比叡山ご学遊の頃、比叡山の学頭をしていた。また日蓮聖人を身延の地へ請じた波木井実長公は遠光公の孫にあたり、その縁もあって宗明は身延山に入山した日蓮上人に深く帰依し、名を最上院日宗と改め、日蓮聖人の客弟となったのである。その際日蓮聖人より七重の宝塔曼荼羅を賜り、山号を宝塔山遠光寺と改めた。
日蓮聖人が池上の地で入寂され、荼毘に付され身延山で葬儀が執り行われた。その際導師を勤めたのが日宗であった。以来7年間日宗の入滅まで10月12日の正当会には日宗が身延へ赴き導師を勤めたのである。身延山第8世日憶上人の代に至り、当山住職は、大聖人御逮夜の導師たるべきことを定められた。
天正19(1591)年には「河東之惣導師」(釜無川以東の日蓮宗寺院の支配)の免許を授与され、以降法主が交代する際また遠光寺の住職が交代する際免許状が取り交わされた。
江戸期における甲斐国身延山系寺院は、一之瀬の妙了寺、鏡中条の長遠寺、そして遠光寺の三ヶ寺を甲斐国三大触頭に諸末寺の支配が託された。
当時の記録には、遠光寺は69の支配寺院と17の末寺を有していたと伝えられる。
また身延山歴代の法主ご入山の際は、当山の書院に一泊され、身延に向かわれるのが通例となり今日に至っている。
昭和20年7月7日の甲府大空襲により七堂伽藍のことごとくが灰燼に帰し、現在の本堂は日蓮大聖人の御生誕750年の慶讃記念として地元山梨出身の内藤多仲博士設計のもと昭和45年7月に法隆寺の夢殿を模して建立されたものである。
(パンフレット資料より)

加賀美遠光の墓



2005年03月12日

宝塔山遠光寺縁起
当山は甲斐源氏の祖・新羅三郎義光より三代、加賀美次郎遠光公が深く仏法に帰依して、山梨郡小曲村(甲府市小曲町)に一寺を建立し、真言宗感応山遠光寺と称した。建保2(1214)年のことと伝える。一説には建暦元(1211)年3月の創立で、京都建仁寺の開祖・千光国師栄西を開山に請じたが、栄西は老齢であるからと弟子の宗明阿闍梨を遣わし、開山とした。
遠光公は元仁元(1224)年9月19日に逝去し、遠光院殿長本大功深誉大居士と号し、当山に葬廟を建てた。のち、年歴を経て破損したので、安政元(1854)年に遠光公の後裔、奥州森岡城々主南部候が修復したと伝えている。
(パンフレット資料より)

加賀美遠光の墓

遠光寺に加賀美遠光の墓があるという情報を得ていたので今回立ち寄ってみました。墓がたくさんある所に足を踏み入れてみましたがすぐに探すのをあきらめてお寺の人に場所を聞きました。丁寧に場所を教えてくれたのですぐに分かりました。墓域に入ってすぐに右に進み、そのまま真っ直ぐに行った突き当りのところでした。
遠光寺は第二次大戦時の空襲により建物が消失してしまったのでコンクリートの建物になってしまっていますが、ここだけは歴史を感じさせてくれる雰囲気がただよっていました。



2004年08月14日

開基は加賀美遠光、開山は京都臨済宗建仁寺の栄西の弟子である宗明を迎えた。後に宗明は身延山において日蓮と法輪を戦わして敗れ、日蓮宗に改宗して道号を日宗と改めた。
遠光寺は初め甲府市小曲町に建立されたが、後に甲府市蓬沢町に移り、更に武田信玄の時代に現在の地に移された。第二次世界大戦で昭和20年の空襲により建物は焼失し、昭和45年に再建された。

 

 
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