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長野県飯山市

飯山城

2016年04月29日

城山公園案内図

飯山城見取図

戦国時代末期、上杉謙信(輝虎)と武田信玄(晴信)の戦いは奥信濃をもその戦乱の渦中に巻き込んだ。弘治年間(1555-58)の前後にはかつて中野の地に勢力を誇った高梨政頼も武田方の圧迫により飯山城に退去している。世に名高い永禄4年の川中島の戦の後、戦略に長けた信玄は奥信濃に深く侵入し、上杉方の防衛線は飯山付近を残すのみとなった。そこで謙信は飯山城の重要性にかんがみて、同7年頃本格的な築城にとりかかった。
(日本城郭体系より)

当初飯山城は大手を北にとり、東は高い城壁と千曲川を天然の水堀とし、南より西に水堀をめぐらしていたものと推定されている。恐らく現在みるような梯郭式の基本はこの前後に造られたものと考えられる。
永禄6年前後には飯山城付近では武田方との小競り合いが続いていたが、同11年信玄は長沼城を基地として飯山城周辺の諸城に大攻勢をしかけた。同11年と推定されている7月10日付の「武田信玄書状案」には「来意の如く、今度上蔵城落居」と、上蔵城を攻略した旨が記されている。恐らく、飯山の南から西にかけての山中の一支城が信玄によって落とされたものと推定される。永禄11年、支城上蔵城は攻略されたが、飯山城は完全に守り切られたものと思われ、8月10日付の「上杉輝虎書状案」では、飯山衆の勇戦ぶりを範として関山城を防戦するよう命じている。
(日本城郭体系より)

天正元年4月の信玄の死去に続き、同6年3月には上杉謙信も病没した。上杉家では養子景虎と景勝が相続争いを起こし、飯山地方もその渦中に巻き込まれたが、この争いは結局景勝の勝利となった。しかし飯山城は武田勝頼が故あって領するところとなった。
ついで天正10年、武田勝頼が織田・徳川両氏の連合軍に敗れると代わって織田氏の軍勢が飯山城を一時占拠したが、織田信長が本能寺の変に倒れたのちは織田勢は退去し、再び上杉景勝の支配するところとなった。そして先の相続争いで景勝派として戦功のあった岩井信能が飯山城に入り城代となった。
慶長3年豊臣秀吉による上杉景勝の会津移封に伴い、岩井信能をはじめとして、この地方の氏人の多くは郷土を去る運命になった。以降飯山地方は徳川幕藩体制のもと、数多くの大名が入れ代わり領知することになった。
(日本城郭体系より)

 



2004年10月17日

城山公園案内図

飯山城見取図

長野県史跡 飯山城跡
この地は、東は千曲川に沿い、西は関田・斑尾の山地に囲まれ、越後への軍事交通の要地であった。城は独立丘陵を削りならして構築した平山城で、梯郭式に本丸、二ノ丸、三ノ丸が南北に連なり、その西側は帯郭、西郭、外郭に区画され、四周は一重の濠をめぐらす。本丸の南面は特に防備を固め、濠は広く、土塁は高く、急傾斜で、東・北・西の三面は直立に近い石垣を築く。本丸・二ノ丸、三ノ丸には城主の居館、政庁、城櫓があり、西郭は重臣の屋敷、濠外は家中屋敷、公共施設、その外側に城下町が発達していた。
この城はもと常盤牧の泉氏の居城で、のち上杉謙信の属城となり、永禄7(1564)年ごろ武田信玄の侵攻に備え、謙信の創意の縄張とさらに上杉景勝の修築による特色ある城郭で、上杉氏の信濃出陣の拠点となった。
慶長3(1598)年上杉氏の会津移封後は、関、皆川、堀、佐久間、松平、永井、青山、本多の諸氏が交替して城主となった。
(看板資料より)

本丸(葵神社)

飯山城からの千曲川

飯山城という名前はあまり聞いたことがありませんでしたが、現地の案内板によれば上杉方の城で、当時武田方に対しての最前線の拠点であったらしい。駐車場から登っていくと最初に本丸が現われ、奥に向ってだんだん下がっていき、二の丸、三の丸へと続く。各曲輪はかなり大きくて規模の大きさを感じることができるが、とにかく色々な石碑が多い。一周してきたと思いましたが戻ってきて再び案内板を見てみると井戸があることを発見し再び城に向いました。少し下がったところに井戸があってそこから弓道場を経て駐車場に出ることができました。駐車場も大きく多くの車を止めることができ、普段は飯山市民の憩いの場になっているようです。城から見えた千曲川が豊かな水をたたえて流れている風景が印象的でした。

二の丸から本丸

桜井戸跡


南中門跡

飯山城南中門跡
この遺構は、平成4(1992)年、弓道場建設に伴う調査によって発掘された。南中門跡を盛土して保存し、その上に新たに礎石、雨落溝を配して復元展示したものです。城内の門については、当時の絵図面や古文書によって存在していた場所が分かっていましたが、発掘によって礎石等が発見されたのはこの南中門が最初となりました。門の規模は、間口5間(約9メートル)、奥行2間半(約4.5メートル)で、絵図面では二層門となっています。また門全体の敷地は30.3坪(約100平方メートル)で、古文書に記載通りの広さであることも確かめられました。江戸時代の飯山城内通路は、南大手門より入り、この南中門を通って三ノ丸、二ノ丸、本丸へと登っていくのです。なお、南中門に接して番所及びかご部屋跡も発見されています。
(看板資料より)


城門

飯山城 城門
○飯山城の門
江戸時代の飯山城内には、櫓、御殿、番所などとともに15の門があった。明治5(1872)年から飯山城の取り壊しが始まり、いろいろな建物の中で城門については各地へ売却されたと伝えられている。多くの門が各地へ移設されたものと思われるが、確実に飯山城の門と言えるものは長野市に移設された南大手門、神明町の妙専寺へ移設された本丸裏門(不明門)、長野市田子へ移設された門(どこの門か不明)である。
○南条丸山家の門
ここに移築した城門は、飯山市柳原南条の丸山家に残されていた長屋門である。この門は、飯山城内のものか、上級武士の住宅の門か不明であるが、建物の部材の様式から、妙専寺山門、田子の城門と同じ作業場で製作された門と考えられ、飯山城に関係した門のひとつとする根拠は充分にある。だが、明治時代に移築された際、住居の一部に転用する大幅な改造が加えられたため、城門とすると飯山城内のどこの門に該当するのかは判明しない。
○移築復元について
この門は平成5年度に丸山家の旧住居の解体にともなって、飯山市が移築復元した。解体にあたっては家屋の柱や部材をすべて調査し、当時の材料のみを多くの部材の中から取り出した。全体規模については不明のため、当時のままの復元は不可能であった。
平成4年、弓道場の建設にともない飯山城南中門付近の発掘調査が行われ、南中門などの遺構が発見された。弓道場の前にその遺構が展示されている。今回の復元にあたっては、旧門の材料を生かしながら全体規模、構造は南中門(間口5間、奥行き2間半)に合わせて復元することとなった。飯山城取り壊しからすでに120年余の歳月が流れている。ここにはじめて飯山城にまつわる遺構が復元展示されることの意義は大きい。
(看板資料より)

 

 
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