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長野県飯山市

小菅神社

2016年04月30日

仁王門


里宮入口の鳥居

小菅神社は飯山市大字瑞穂小菅に鎮座され、小菅山の山頂近く岩壁に南面して、奥社、麓の里には里宮を配します。小菅神社は古来より戸隠山、飯綱山とともに奥信濃三山と称せられ、一山を小菅山元隆寺と号しました。
古くは山岳信仰神仏両道の聖地、一大修験の霊域として栄えました。
神社史の伝によると、桓武天皇の御代に征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の戦勝祈願に参詣、また勅旨鷲尾中将、東征の祈願使として下向さるに及び、朝廷との関係厚く平城・嵯峨天皇の勅願所となりました。
その後、本地は熊野神社の荘園、京都若王神社の荘園として明治初期まで嵯峨御所との関係が及んでおりました。
奥社は明治以前までは奥ノ院と称し、小菅山権現と熊野・金峰・白山・立山・山王・走場・戸隠の八ヶ所の神々を八所権現として祀り、万民豊かにして天下太平、農耕の神として五穀豊穣を願う人々の信心篤く広く信仰を寄せられました。
明治以降は政令により小菅神社奥社と改称され、八所大神を祀り篤く信仰されております。里宮は、主祭神素盞雄尊を祀り、相殿に平城・嵯峨天皇を祀っております。近年は商売繁盛、開運、交通安全、工事安全、学業成就、厄除等の御神徳があり、多くの信仰と参拝を集めております。
(看板資料より)


里宮本殿

かつては八所大権現里宮と呼ばれていたが、明治に至り小菅社八所大神里神、更に小菅神社里社に改称された。
現在の里社本殿は、万治3(1660)年、飯山城主松平忠倶によって改築されたもので、大正12年に大改修が行われて現在の建物となった。付近に神饌殿、神興殿、神楽殿、神馬殿などがあるが、いずれも大正10年から12年に建立、改修されたものである。
(看板資料より)


講堂


観音堂

小菅山元隆寺大聖院の一坊桜本坊であった。大聖院は戸隠とならび修験の一大道場で京都の若王寺(禅林寺)の庄園を背景として栄えた。桜本坊は川中島合戦で本院と共に焼失したが、後に上杉氏によって復興され江戸時代中期には菩提院と改称された。明治維新に際して大聖院の宝物は大方当院に納められた。
昭和62年梵鐘再建に当り銘を小菅山元隆寺桜本坊菩提院と刻まれている。なお観音堂は信濃三十三番の第十九番札所として信仰を集め庶民の息災縁結びの観音様として知られ参詣者も多かった。
(看板資料より)



奥社への参道


鐙石


隠石

川中島合戦の際、越軍(謙信公)が追手をさけて隠れた処と言い伝えられる。
(看板資料より)


加耶吉利堂跡


御座石


愛染岩


築根岩

戦国時代に越後の上杉氏がここで千灯を献じたという。


奥社

重要文化財小菅神社奥社本殿附宮殿二基
奥社本殿は、小菅部落東方の長い杉並木の参道を登ると、山頂に近い標高約900メートルの岸壁に寄せ深い渓谷に南面して建てられている。岸壁は建物を覆い堂内には甘露池がある。
その構造形式は、懸造で桁行4間、梁間4間、一重入母屋造、妻正面、屋根は平葺型の銅板葺きである。規模は桁行11.3152メートル(東側)、9.4007メートル(西側)梁行は9.7468メートルを測る。また内陣に納められた宮殿二基は共に桁行2間、梁間2間、一重入母屋造。
現在の奥社本殿は様式手法からみて、天文年間の再建と推定され、宮殿には永正5年9月成就の古記録があり、共に室町時代末期の建造物と考えられる。
なお、当社には藤原時代の木造馬頭観音像をはじめ、応永12年在銘の板絵着色観音三十三脇立があり、何れも京都文化の影響が認められ、繁栄した当社の歴史が偲ばれる。
小菅神社は役小角創立を伝え、馬頭観音を本地とし、熊野、金峯、白山、立山、山王、走湯、戸隠の諸社を勧請し、八所権現を祀る。中世は小菅山元隆寺と称し、京都禅林寺の庄園に属し、戸隠、飯縄と並んで修験の道場として著名であった。
文部省
(看板資料より)


奥社からの眺め (新幹線飯山駅)

奥社からの眺め


護摩堂 (大聖院跡)

 



2012年11月18日

里宮入口の鳥居


里宮本殿

かつては八所大権現里宮と呼ばれていたが、明治に至り小菅社八所大神里神、更に小菅神社里社に改称された。
現在の里社本殿は、万治3(1660)年、飯山城主松平忠倶によって改築されたもので、大正12年に大改修が行われて現在の建物となった。付近に神饌殿、神興殿、神楽殿、神馬殿などがあるが、いずれも大正10年から12年に建立、改修されたものである。
(看板資料より)


観音堂

小菅山元隆寺大聖院の一坊桜本坊であった。大聖院は戸隠とならび修験の一大道場で京都の若王寺(禅林寺)の庄園を背景として栄えた。桜本坊は川中島合戦で本院と共に焼失したが、後に上杉氏によって復興され江戸時代中期には菩提院と改称された。明治維新に際して大聖院の宝物は大方当院に納められた。
昭和62年梵鐘再建に当り銘を小菅山元隆寺桜本坊菩提院と刻まれている。なお観音堂は信濃三十三番の第十九番札所として信仰を集め庶民の息災縁結びの観音様として知られ参詣者も多かった。
(看板資料より)


杉並木入口にある鳥居

重要文化財小菅神社奥社本殿附宮殿二基
奥社本殿は、小菅部落東方の長い杉並木の参道を登ると、山頂に近い標高約900メートルの岸壁に寄せ深い渓谷に南面して建てられている。岸壁は建物を覆い堂内には甘露池がある。
その構造形式は、懸造で桁行4間、梁間4間、一重入母屋造、妻正面、屋根は平葺型の銅板葺きである。規模は桁行11.3152メートル(東側)、9.4007メートル(西側)梁行は9.7468メートルを測る。また内陣に納められた宮殿二基は共に桁行2間、梁間2間、一重入母屋造。
現在の奥社本殿は様式手法からみて、天文年間の再建と推定され、宮殿には永正5年9月成就の古記録があり、共に室町時代末期の建造物と考えられる。
なお、当社には藤原時代の木造馬頭観音像をはじめ、応永12年在銘の板絵着色観音三十三脇立があり、何れも京都文化の影響が認められ、繁栄した当社の歴史が偲ばれる。
小菅神社は役小角創立を伝え、馬頭観音を本地とし、熊野、金峯、白山、立山、山王、走湯、戸隠の諸社を勧請し、八所権現を祀る。中世は小菅山元隆寺と称し、京都禅林寺の庄園に属し、戸隠、飯縄と並んで修験の道場として著名であった。
文部省
(看板資料より)


隠石

川中島合戦の際、越軍(謙信公)が追手をさけて隠れた処と言い伝えられる。
(看板資料より)

 



2011年12月29日

小菅神社は飯山市大字瑞穂小菅に鎮座され、小菅山の山頂近く岩壁に南面して、奥社、麓の里には里宮を配します。小菅神社は古来より戸隠山、飯綱山とともに奥信濃三山と称せられ、一山を小菅山元隆寺と号しました。
古くは山岳信仰神仏両道の聖地、一大修験の霊域として栄えました。
神社史の伝によると、桓武天皇の御代に征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の戦勝祈願に参詣、また勅旨鷲尾中将、東征の祈願使として下向さるに及び、朝廷との関係厚く平城・嵯峨天皇の勅願所となりました。
その後、本地は熊野神社の荘園、京都若王神社の荘園として明治初期まで嵯峨御所との関係が及んでおりました。
奥社は明治以前までは奥ノ院と称し、小菅山権現と熊野・金峰・白山・立山・山王・走場・戸隠の八ヶ所の神々を八所権現として祀り、万民豊かにして天下太平、農耕の神として五穀豊穣を願う人々の信心篤く広く信仰を寄せられました。
明治以降は政令により小菅神社奥社と改称され、八所大神を祀り篤く信仰されております。里宮は、主祭神素盞雄尊を祀り、相殿に平城・嵯峨天皇を祀っております。近年は商売繁盛、開運、交通安全、工事安全、学業成就、厄除等の御神徳があり、多くの信仰と参拝を集めております。
(看板資料より)

今回は上杉謙信が崇拝していた小菅神社と、更に永禄4年の川中島合戦の時に敗走する上杉謙信が隠れたという石を見に来たのですが、写真のように雪が深くて近寄ることが出来ませんでした。
また季節を改めて訪れたいと思いました。

 

 
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