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愛知県新城市

石橋城

2014年03月29日

石橋城縄張概図

石橋城は、奥平二代貞久の次男、弾正久勝が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、三代貞昌の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌は、天文6(1537)年9月、主君への謀反が露見し、四代貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。
死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも西方土塁の腰に石祠を確認することができる。後年になり、当山の第二世徳岩明和尚が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。
(看板資料より)

本堂



2005年02月11日

石橋城縄張概図

石橋城は、奥平二代貞久の次男、弾正久勝が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、三代貞昌の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌は、天文6(1537)年9月、主君への謀反が露見し、四代貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。
死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも西方土塁の腰に石祠を確認することができる。後年になり、当山の第二世徳岩明和尚が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。
(看板資料より)

亀山城の前にある、道の駅「つくで手作り村」から道路を挟んで向かい側に石橋城址があります。周辺は土が盛り上がっていて土塁の痕跡が認められました。また奥平貞勝に討ち取られた繁昌らの石祠が立ち並んでいました。

石祠

 
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