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愛知県新城市

甘泉寺

2014年03月29日

当山は応安3(1370)年9月に臨済正宗20世弥天永釈大和尚により開山された。時の将軍足利義満公の帰依もあり、御朱印高48石、山林境内20余町歩の寄進があった。和尚の死後、応永22(1316)年、称光天皇より「見性悟心禅師」の謚号を賜る。その後、第42世朴宗和尚が一堂を建て、開山禅師の遺像を安置し開山堂とした。境内には織田信長が葬ったといわれる長篠合戦の功労者、鳥居強右衛門勝商の墓碑があり、寺内には位牌が祀られている。
(看板資料より)

国指定天然記念物コウヤマキ

鳥居強右衛門勝商之墓所

鳥居強右衛門勝商の墓
甲州の騎馬軍団1万5千は武田勝頼を総大将として三河に進入し長篠城を包囲した。時に天正3(1575)年4月であった。この時長篠城内500の兵を率いて防戦したのは作手亀山城主奥平美作守貞能の嫡男貞昌(後の信昌)で時に21才であった。攻防20日余日、5月14日城中の食糧は尽きてきた。危急に際して援軍懇願の使者となって岡崎の家康のもとに走ったのが強右衛門である。彼は深夜敵の包囲網を破り豊川の急流を泳いで脱出し岡崎に至りその使命を果して帰城の途中篠場野で捕えられた。16日の夜磔柱の上で数本の槍に刺され壮絶な最後を遂げた。戦国乱世には味方を救うため自らを犠牲にしてその死にざまを大切にした。興亡流転の著しい争乱の世の武将の理想とする壮絶な死であった。時に強右衛門36才。豊川市市田出身である。因に妻は作手村市場の生まれである。辞世「我が君の命にかわる玉の緒を何に厭ひけん武士の道」
(看板資料より)

 



2005年02月11日

当山は応安3(1370)年9月に臨済正宗20世弥天永釈大和尚により開山された。時の将軍足利義満公の帰依もあり、御朱印高48石、山林境内20余町歩の寄進があった。和尚の死後、応永22(1316)年、称光天皇より「見性悟心禅師」の謚号を賜る。その後、第42世朴宗和尚が一堂を建て、開山禅師の遺像を安置し開山堂とした。境内には織田信長が葬ったといわれる長篠合戦の功労者、鳥居強右衛門勝商の墓碑があり、寺内には位牌が祀られている。
(看板資料より)


国指定天然記念物コウヤマキ

推定樹齢600年とのことである。


鳥居強右衛門勝商の墓は鳳来町に立派なものがありますが、妻が作手出身とのことでここにもあるのでしょうか? 信長が葬ったとのことで立ち寄ってみましたが、きれいに整備された墓がありました。またここは天然記念物のコウヤマキという巨木の下を登っていきますがその景色には圧倒されるほど大きな木が立ち並んでいます。樹齢600年とのことですから戦国時代の人たちもこの木を見上げていたでしょう。


鳥居強右衛門勝商之墓所

鳥居強右衛門勝商の墓
甲州の騎馬軍団1万5千は武田勝頼を総大将として三河に進入し長篠城を包囲した。時に天正3(1575)年4月であった。この時長篠城内500の兵を率いて防戦したのは作手亀山城主奥平美作守貞能の嫡男貞昌(後の信昌)で時に21才であった。攻防20日余日、5月14日城中の食糧は尽きてきた。危急に際して援軍懇願の使者となって岡崎の家康のもとに走ったのが強右衛門である。彼は深夜敵の包囲網を破り豊川の急流を泳いで脱出し岡崎に至りその使命を果して帰城の途中篠場野で捕えられた。16日の夜磔柱の上で数本の槍に刺され壮絶な最後を遂げた。戦国乱世には味方を救うため自らを犠牲にしてその死にざまを大切にした。興亡流転の著しい争乱の世の武将の理想とする壮絶な死であった。時に強右衛門36才。豊川市市田出身である。因に妻は作手村市場の生まれである。辞世「我が君の命にかわる玉の緒を何に厭ひけん武士の道」
(看板資料より)


鳥居強右衛門の墓

 

 
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