←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

岐阜県恵那市

岩村城

2014年03月22日

本丸

岩村城
岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜721メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大城の一つである。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元(1185)年に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に攻め、以降遠山氏が代々居城した。
戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元(1573)年に岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田軍に敗れ、以降城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と28年間に目まぐるしく交替した。
慶長5(1600)年関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。江戸時代の城主は松平氏2代、丹羽氏5代の後、大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治6(1873)年に取り壊された。
(看板資料より) 

出丸から見た本丸

出丸
本丸の南西の防衛を担う重要な曲輪で、2棟の二重櫓、3棟の多門櫓で厳重に固められていた。二重櫓の一つは時を告げる太鼓が置かれていた太鼓櫓である。また、多門櫓の一つは大工小屋として使われるなど、平時には城の維持管理を担う曲輪でもあった。
(看板資料より) 


藤坂

岩村城大手の登城道のうち、藩主邸から一の門まで続く急な坂道は「藤坂」と呼ばれている。加藤景廉の妻重の井が輿入れの際に、生まれ育った紀州藤城村から持参した種から育てたと伝える、フジの大木があったことがその由来という。
(看板資料より)


初門

直線的に伸びる登城坂でこの部分だけが、行く手を遮るようにU字形に大きく曲げられている。有事の際にはここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため「初門」と呼んだという。岩村城の最初の関門である。
(看板資料より)


一之門

二層の櫓門で、大手一之門とも呼ばれる。城に向って左側には単層の多門櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていた。前面左側には石塁が張り出しており、死角から敵が近づかないように工夫されている。内側には番所が置かれていた。
(看板資料より)


土岐門

岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。絵図等では薬医門または四脚門として描かれている。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したという伝承からこの名がついた。廃城後に徳祥寺(岩村町飯羽間)山門として移築され現存している。
(看板資料より)


畳橋

大手の入口は、高石垣と桝形門、三重櫓によって厳重に固められており、前面の空掘にL字形に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていた。床坂を畳のようにめくることができたことから畳橋と呼ばれたという。
(看板資料より)


追手門・三重櫓

追手門は、畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る桝形門である。脇には畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていた。三重櫓は岩村しろ唯一の三層の櫓で天守に相当し、城下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見るように設定されている。
(看板資料より)


霧ヶ井

霧ヶ城と言われるもととなった井戸。敵が城を急襲したとき、この井戸へ城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると忽ち霧が立ちこめ城を覆い隠したという伝説があります。この水は今も絶えることなく湧き出し、昭和62年に岐阜県の名水50選に認定されました。
(看板資料より)


菱櫓と俄坂

山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。菱櫓が全国城郭にもその例はあまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多門があって大円寺、水晶山方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正門)で大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。
(看板資料より)


長局埋門

両側の石垣の上に多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門。門の内側の細長い曲輪は長局と呼ばれている。入って左手の本丸に入る内枡形状の通路は東口門で、本丸の正門である。前面の一段低い曲輪は東曲輪で、本丸の外桝形的機能を持っている。
(看板資料より)


埋門

両側の奥の石垣の上にすっぽりとかぶさるように櫓が載せられ、石垣の間のクランクした通路には3ヶ所に門扉が設けられていた。門の右側には納戸櫓(二重櫓)が建てられていた。また、左側の石垣は江戸初期の築城当初のものであると考えられる。
(看板資料より) 


南曲輪

本丸の南の尾根に伸びる戦国時代の遺構で、2本の堀切や竪堀、土橋などの遺構を観察することができる。江戸時代には一部が侍屋敷として用いられたほかは戦国時代の状態のまま維持されていたとみられる。なお「南曲輪」は仮称である。
(看板資料より) 


八幡神社

中世の城主遠山氏の氏神で始祖加藤景廉を祀る。明治5(1872)年に山麓の現在地へ移転した。入口に鳥居が建ち、中段には別当寺である薬師寺、最奥部に拝殿と本殿、八幡櫓があった。
棟札から永正5(1508)年には神社があったことが分かっている。
(看板資料より) 

 



2003年10月11日

岩村城絵図


岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜721メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大城の一つである。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元(1185)年に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に攻め、以降遠山氏が代々居城した。
戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元(1573)年に岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田軍に敗れ、以降城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と28年間に目まぐるしく交替した。
慶長5(1600)年関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。江戸時代の城主は松平氏2代、丹羽氏5代の後、大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治6(1873)年に取り壊された。
(看板資料より)

織田信長宿泊地
本能寺の変80日前に信長が泊る。
(看板資料より)

本丸は海抜721メートルあり、日本の山城の中で最も高地にある。
その歴史と広大さと要害堅固さから日本三大山城の一つとされている。東曲輪からも二の丸からの入口も埋門を通じてやっと進入できる。本丸には二重櫓と納戸櫓があり、二重櫓は城主の最後の拠点となる重要な建物であった。多門は三つあり、東西の石垣に沿ってあった。山城のため天守閣は無かったが城内の要所要所に11の櫓(2階建又は3階建)又は櫓門があって常時各方面を監視しており、しかも全部が本丸に統一掌握されるようになっていた。本丸の柵門のそばに岩村城創業者加藤景廉公が植えた松があったが安政年間(1854)年頃に大風のため折れて消滅した。
(看板資料より)


本丸埋門


本丸へ入る搦手門は埋門となっている。石垣のなかに一階部分は埋まり、門の上にこれに跨って長い多門があって監視と防備の役目を果たした。また敵が攻めて来たとき土や石で門を埋めてしまうことも出来るので、他の門に比べて埋門は堅固であった。
埋門の石垣は野面積み(自然石を積む)打込ハギ(自然石を石垣の外側のみ平にする)切込ハギ(切石を使う)の三種を一度に見ることが出来る。これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で野面積みが一番古く、切込ハギは享保3(1718)年にあった大地震のあと修復したものである。埋門左側の長い石垣は土岐坂につぐ古いもので、一見粗雑であるが意外と頑丈である。
(看板資料より)


菱櫓と俄坂


山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。菱櫓が全国城郭にもその例はあまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多門があって大円寺、水晶山方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正門)で大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。
(看板資料より)


霊泉 霧ヶ井


霧ヶ城と言われるもととなった井戸。敵が城を急襲したとき、この井戸へ城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると忽ち霧が立ちこめ城を覆い隠したという伝説があります。この水は今も絶えることなく湧き出し、昭和62年に岐阜県の名水50選に認定されました。
(看板資料より)

霧ヶ井は鎌倉時代から清らかな水を湛えている。
この井戸は城主専用のもので、お堂の中にあった。岩村城の別名を霧ヶ城というが、それは非常に霧が発生しやすい地勢にあることから名づけられた。伝説によると敵が攻めて来たとき、城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると、忽ちにして雲霧が湧き出して全山を覆い、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみ、そこへ城兵が突入して勝利を得た。これは山霊の加護によるもので、依って霧ヶ城と呼ばれ天下の名城と伝えられている。
霧ヶ井はどんなに日照りが続いても決して水の涸れない不思議な井戸で、江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったと伝えられている。
(看板資料より)


八幡神社


八幡神社は岩村城創築と同時に譽田別命を祭神として城内鎮守の神社とした。岩村城創築の祖加藤景廉が承久3(1221)年に没したので、すぐ配神として祀り座像を納めた。城主はかわっても、歴代城主及び家中の崇敬は篤く、社殿の修理等を記録した棟札は永正5(1508)年のものから現存し、岐阜県重要文化財に指定されている。武並神社に祀ってある景廉の長男、遠山景朝が御輿に乗って、八幡神社の父景廉に会いに行くという岩村町秋祭り行事は岐阜県重要無形民俗文化財に指定されている。棟札、絵馬等は岩村町郷土館に展示されている。明治5(1872)年に神社は大路に移築された。
(看板資料より)


竜神の井


この井戸は、岩村城のうち最大規模で、昭和60年に創築800年を記念して復元しました。昭和62年に岐阜県の名水50選に認定されましたが今も絶えることなく、味は天然のうまさがあります。
(看板資料より)


土岐門


土岐殿門ともいい土岐氏に関係あり。
(看板資料より)



大手門、三重櫓、畳橋
畳橋は敵が攻めてくると橋板をとってしまうのでその名がある。大手門(追手門)は正門のことで、城門の中で最も重要な門であるから、その防備は厳重を極めている。大手門は二つあり、一つは櫓門、一つはその前面の桝形へ入る平重門である。
桝形も大手櫓門をかばう防御施設である。空掘にのぞんで三重櫓(三階建)があった。岩村城は山城で天守閣は不要であるが、この三重櫓が天守閣の如く偉容を誇っていたのは、城下街から見上げたとき、ここが最も見栄えのする地点であったからである。しかし岩村城の本格的要害は、ここから奥に展開する。この辺りの石垣は最も美しく絶壁にのぞんだ三日月形の曲線は扇の勾配とも又は武者返しとも呼ばれている。
(看板資料より)

一の門
藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城である。一の門は櫓門(二階建)で、左側に番所があって、平時でも監視の番人がいて出入りするものを厳重に調査してから通した。つづいて多門(石垣の上に設けた長屋で城壁を兼ねた)があり、常に武士が詰めていた。
一の門は岩村城守備の第一線で櫓門の上から城下街を一望に出来る町の動静については昼夜を問わず兵が看視に当っていた。
右手に高い石垣(石塁)が連なり、高台に屋敷もあった。一の門をくぐると土岐坂となるがその突き当りの石垣の約10メートル幅は岩村城において最も古く中世末期のものと云われている。
(看板資料より)


藤坂の険


藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち、一の門に至る約300メートルの間を云う。途中で大きく左折するが、この地点を初門又は假御門と称していた。戦争になると、ただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣地としたが、この初門の地点から城下街を一望にすることが出来るので敵の動静も知ることができた。
平時の藤坂は登城坂にすぎないが戦争になると初門をはじめとして、坂の途中に何ヶ所も陣をつくり防御したので容易に進むことができなかった。
藤坂の名は伝説として岩村城を創築した加藤景廉の妻、重の井が紀州から藤の実をとりよせて植えたことから始まったと云われ、藤にまつわる伝説が幾つかある。
(看板資料より)


出丸


出丸は本丸の南部の防御の役目を持ち、東曲輪、帯曲輪と共に本丸を防衛した。櫓が二つ多門が三つあり、門は一つのみで帯曲輪からしか入れなかった。
櫓は二重櫓と太鼓櫓があって城下町がよく見える位置にある。太鼓櫓には大太鼓があって、非常の際は城下に知らせた。この太鼓が打たれると武士達はただちに完全武装して登城し定められた部署について戦争等の準備をした。城下町の町民は火をすべて消し、木戸を締めて城からの指令を待った。
多門は三つあり、一つは武者隠多門といって、戦争のときに城兵を待機させた建物である。一つは大工小屋と云って城の営繕関係の中間が仕事をしていた。
(看板資料より)

中世城郭遺構(南曲輪)
岩村城は中世に峻険な地形を巧みに利用して創築された山城である。近世になってから近世城郭へと改築された。現在見ることができる石畳を持つ城郭となったが、中世城のうちかなり多くの部分が切り捨てられ、山の中に遺構が残っている。
南曲輪は、その中世城郭の遺構の一つで、堀切、土塁、腰曲輪、土橋が典型的に残っている。近世においては最先端部に見張り小屋を設けた。
(看板資料より)


下田歌子勉学所


下田歌子女史の祖父は東条琴台で、「聖世紹胤録」など多数の著述をもつ学者であり、父も岩村藩校知新館の教授をしたことがある学者の家庭に生まれ育った。女史は5才で俳句をつくり和歌を詠み7、8才にして見事な韻を踏んだ漢詩を賦し、神童と呼ばれた。
しかし、女であるため、すぐ近くにある知新館に学ぶことは許されなかった。家庭において祖母貞から読み書きの手ほどきを受け祖父と父の豊富な蔵書を読みあさって、次第に頭脳を多彩的なものとし、詩的な情操をより豊かにしていった。独学で修めた和漢学は知新館の教授も驚嘆するほどになった。
この室は父の書斎であり、女史の勉強した室である。幼い頃から女史の胸中に秘かに燃えていた炎は、女というだけで知新館へ入学できなかったという反発であった。18才で上京し、やがて実践女子学園を創立するにいたった苦難の道を進むのを支えたのは、この炎であった。
(看板資料より)

下田歌子女史略伝
下田歌子女子は安政元(1854)年に岩村藩士平尾しゅう蔵の長女としてこの地に生まれ鉐(せき)と名づけられた。明治4(1871)年、18才で父の元へ上京、翌5年に宮中の女官に登用された。宮中での歌会にいつもすぐれた和歌を詠み昭憲皇太后より歌子と名を賜った。
明治12年退官して下田猛雄と結婚したが同17年に夫が死去したので再び宮内省に出仕し、華族女学校の創立に参画、同18年に華族女学校教授となった。明治26年に欧米へ出張して女子教育を視察、同32(1899)年に実践女学校及び女子工芸学校を創設して校長となった。現実践女子学園である。同校で中国(清国)から女子留学生を多く受け入れて教育し孫文とも親交が深かった。明治40年に兼任していた学習院教授兼女子部長を勇退した。大正9年には愛国婦人会長に就任して活躍した。女史は女子教育に一生を捧げ学者であり歌人であり、社会奉仕家で意志強固、熱弁家で男子を凌ぐ明治、大正の日本未曾有のの女傑で才色兼備の女性であった。昭和11年、83才で死去した。
明治41年特旨を以って従三位勲三等に叙せられた。
(看板資料より)

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→