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岐阜県中津川市

苗木城

2014年03月22日


足軽長屋跡

石垣によって造成された約30m程の広場には、足軽の宿泊施設の外「小頭部屋」「稽古場」等、数棟建ち並んでいた。
足軽が城に出仕(勤務)する場合、最初にこの長屋に立ち寄ることになっていた。
(看板資料より)


龍王院跡

足軽長屋の南側隣地に「光耀山金厳寺龍王院」という領主遠山家の祈祷所があった。
真言宗の寺院であったが、明治維新の廃仏毀釈運動にて神職が支配するところとなった。
(看板資料より)


風吹門跡

二階が「飼葉蔵」として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三の丸への出入り口に位置する。門の右側(南側)に門番所が併設され、昼夜を問わず人の通行を監視していた。
城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、右側の潜り戸が利用されていた。
(看板資料より)


大矢倉跡

大矢倉は外観からは二層に見えるが実際は三階建であった。一階は三方を石垣で囲われ、倉庫として使われていた。苗木城最大の櫓建築で、2階、3階の壁には矢狭間が設けられるなど、大手門である風吹門や北側からの防御のために作られた。
(看板資料より)


北門跡

城の外郭にあった土塀付きの門で、門番はいなかった。城の入口にある風吹門からみて、北側にあたる門であるから名前がついていた。ここから先、東側に下ると木曽川に、また北側の道は家臣の屋敷群跡に通じる。北門の脇にある小池は雨水が頼りの貯水池で馬の飲み水に利用されていた。
(看板資料より)


大門跡

苗木城の中で一番大きな大門は、2階建てで三の丸と二の丸とを仕切っていた。門の幅は二間半、二階部分は物置に利用されていた。
領主の江戸参勤交代出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は左側(東側)にある潜り戸を通行していた。
(看板資料より)


御朱印蔵跡

「切石」できっちりと積まれた石垣の上に建てられていた後朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。これらの収蔵品の虫干しは、毎年一度必ず行われ、また蔵への出入りには右側の梯子が使用された。
(看板資料より)


綿蔵門跡

本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。
門の名の由来は、年貢として納められた真綿が門の二階に保管されていたことからきている。
(看板資料より)


坂下門跡

この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段が良く残されている。坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、またの名を久世門ともいう。これは三代領主友貞の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家久世家の名からきていると伝えられている。
(看板資料より)


菱櫓門跡


千石井戸・本丸口門

苗木城内の井戸で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にもかかわらず、どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられており、千人の用を達するということから千石井戸と名付けられています。
千石井戸の西側にある本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で建てられていたことから、欅門とも呼ばれていました。
千石井戸の東側には、掛け造りの小屋が並んでおり、渋紙蔵、山方蔵、郡方蔵などがありました。
(看板資料より)


武器蔵

長さ8間(約16m)、奥行3間(約6m)の土蔵。
建物の長さから別名八間蔵といわれ、大名遠山家が所持していた鉄砲や弓等の武器類が収められていた。
現在は一部建物土台が崩壊しているが、礎石や縁石が往時のまま残されている。
(看板資料より)


玄関口門

玄関口という名のとおり、この門を抜けていくルートが、天守への正式な道でした。
この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋とつながっていました。
通常は鍵が掛けられていて、ここから中に入ることは禁じられており、鍵は目付役が管理していた。
(看板資料より)


本丸玄関

本丸玄関は、天守台より一段低い位置にありました。そのため玄関に入ると苗木城の特徴の一つである掛け造りの千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。
玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、整備前の調査でも、多くの玉石が確認されました。この石敷きはその玉石を利用して復元したものです。
玄関の右側にある巨岩には柱穴があり、この巨岩にはみ出す形で建物が建てられていました。
(看板資料より)


苗木城天守建物

苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。1階部分の名称は「天守縁下」、板縁を入れて4m×5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。
2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6m×6m(三間四方)でした。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。
3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさでした。
この巨岩の上の柱と簗組は、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用いたしました。
苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。
(看板資料より)


馬洗岩

天守台跡の南下に大岩があり、馬洗岩と呼ばれている。絵図には「この石廻り二十三間弐尺」とあり、周囲約45mの花崗岩質の自然石である。
馬洗岩の名の由来は、かつて苗木城が敵に攻められ、敵に水の手を切られた時、この岩の上に馬を乗せて、米にて馬を洗い、水が豊富にあるかのように敵を欺いたことから付けられたといわれている。
(看板資料より)


笠置矢倉跡

本丸からみて西側にある矢倉で、常時何も置かれていなかった。絵図では建物が1層に描かれているが、実際は床下も合わせて3階建ての掛屋造りで、巨岩の上に建てられていた。
ここからの眺望が良く、笠置山が正面に見えることから「笠置矢倉」と呼ばれた。
(看板資料より)


仕切門跡

城の二の丸から本丸に至る南側の登り道には、崖沿いに石垣が築かれ、塀が設けられていた。
この仕切門の仕切の意味は、二の丸と本丸との境を意味し、この先は本丸である。門は屋根付きの2間、4間半の建物で、門の右側は小屋(物置)として利用されていた。
(看板資料より)


物見矢倉跡周辺


八大龍王大神

清水門跡

門の北側にある大岩の下から清水が湧き出て、どんな時でも枯れることがないといわれている。絵図には桶が描かれ、清水を用水として利用していたことがわかる。
巨岩の合間に安置されている祠は、八大竜王社で明治以降ここに移設された。
(看板資料より)


不明門跡

一段と低い所にある門で、呼び方は「ふめいもん」とも「あかずのもん」とも言われ、2階建てであった。
2階部分は物置に使用され、1階部分(床下)は門になっていた。
幅約1間の通用口の両側の壁は石垣で、高さは最大で3.2mある。
普段は締め切られ、忍びの門であるといわれているが、現在門から外につながる道は確認できていない。
(看板資料より)


竹門跡

竹門という名前の門は、苗木城に2か所あった。いずれも城の外、外郭部にあり、ニ脚の門である。
名の由来は、扉が竹で作られていたことからきていて門番がいなかった。
木曽川からの登城道がある四十八曲り道は、この門の手前から右折していくが、門をくぐって真っ直ぐ進んでも城内に通じていた。
(看板資料より)


牢屋

苗木城には一つの牢屋しかなく、三の丸と二の丸を区切る大門の左奥にある。
建物の規模は、2間、4間ほどの大きさで、日のあまり当たらない大きな岩の上に建てられていた。
明治初年頃に起きた苗木藩の政争の際には、多くの上層武士たちが、この牢屋に収監され、処断された事件が起きている。
(看板資料より)

 



2004年09月19日

武田家の家督を相続した信勝の母は織田信長の養女ですが、彼女は東美濃の遠山一族である苗木城の遠山直廉のところに織田信長の妹が輿入れして生まれた娘である。資料によればおりえの方といったそうです。
信長は妹の子を自分の養女として引き取って育てていたということになる。甲陽軍鑑によれば永禄8年に彼女は勝頼のもとに輿入れしたとあり、当時勝頼は20歳、彼女は13,4歳だったと思われる。当時勝頼は諏訪四郎勝頼として高遠城にいたので彼女も高遠城にいたが、後に男の子を産んだ。これが信勝である。しかし彼女は信勝を産んで間もなく死んでしまうのである。

本丸

本丸から木曽川と中津川市街を望む


風吹門跡

二階が「飼葉蔵」として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三の丸への出入り口に位置する。門の右側(南側)に門番所が併設され、昼夜を問わず人の通行を監視していた。
城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、右側の潜り戸が利用されていた。
(看板資料より)


大矢倉跡

大矢倉は外観からは二層に見えるが実際は三階建であった。一階は三方を石垣で囲われ、倉庫として使われていた。苗木城最大の櫓建築で、2階、3階の壁には矢狭間が設けられるなど、大手門である風吹門や北側からの防御のために作られた。
(看板資料より)


北門跡

城の外郭にあった土塀付きの門で、門番はいなかった。城の入口にある風吹門からみて、北側にあたる門であるから名前がついていた。ここから先、東側に下ると木曽川に、また北側の道は家臣の屋敷群跡に通じる。北門の脇にある小池は雨水が頼りの貯水池で馬の飲み水に利用されていた。
(看板資料より)


大門跡

苗木城の中で一番大きな大門は、2階建てで三の丸と二の丸とを仕切っていた。門の幅は二間半、二階部分は物置に利用されていた。
領主の江戸参勤交代出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は左側(東側)にある潜り戸を通行していた。
(看板資料より)


御朱印蔵跡

「切石」できっちりと積まれた石垣の上に建てられていた後朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。これらの収蔵品の虫干しは、毎年一度必ず行われ、また蔵への出入りには右側の梯子が使用された。
(看板資料より)


綿蔵門跡

本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。
門の名の由来は、年貢として納められた真綿が門の二階に保管されていたことからきている。
(看板資料より)


坂下門跡

この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段が良く残されている。坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、またの名を久世門ともいう。これは三代領主友貞の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家久世家の名からきていると伝えられている。
(看板資料より)


帯曲輪

的場、仕切門、八大竜王、清水門、不明門を経て二の丸に至る。
(看板資料より)


千石井戸

深くはないがどんな日照りの時でも水が枯れたことがなく俗に千人の用を達したといわれる。
(看板資料より)


四十八曲り道

ここから苗木城跡へ登るつづら折れの道を「四十八曲り道」と言い、三の丸跡まで約500m、標高差約150mの急峻な道です。
この道は別名「大手口道」とも言われ、領主の参勤交代等にはこの道が使われていました。古記録によると「本丸まで48回曲がる道」となっており、この道の由来となっています。
(看板資料より)


苗木遠山史料館

苗木遠山史料館は、国史跡「苗木城」の麓に戦国時代から明治時代に至る、苗木領の歴史的な文化遺産を保存・公開し、調査・研究に資することを目的に設置されました。
(パンフレット資料より)

苗木城に行く前にここに寄ることをお勧めします。苗木遠山史料館では「戦国の武将を中津川」という本(1500円くらい?)を購入しました。遠山家、織田家、武田家に関する資料及びその説明が書かれていました。これとは別に、
信長をめぐる女性たち
・武田信玄懐柔の使者 遠山氏 養女
・戦国の世を貫く純愛 松姫 信忠の許嫁
・非業に死んだ女城主 遠山景任の妻 叔母
という資料について、受付の女性に無理を言ってコピーさせてもらいました。

 

 
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