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山梨県山梨市

信盛寺

2013年09月21日

天正10年岩手右衛門太夫信景殿ハ武田ノ親族故子孫ヲ安ンゼンガ為南山ニテ相果テラレ候。合掌。
(石碑記載文章より)

大岩院殿信月光公
俗名:武田治部少輔縄美
武田縄美の時大石明神新宮建立崇敬あり後に信盛造営神田を附す。更に菩提所には寺領七貫文を附け外に十貫文の寄附状あり。
武田縄美は武田信昌の三男にて父信昌より永正元年に岩手郷沢十一箇村五千余貫を配知領し来たり、東武田殿と号す。永正5年曽根勝山において戦死す。跡目は嫡男、岩手能登守信盛これを継承す。
甲斐源氏武田之支流岩手家系図
信昌--信縄--信虎--晴信(信玄)--勝頼
   -縄美--信盛--信景--信重
(石碑記載文章より)

信盛院殿宥山雲公大庵主
俗名:武田信勝改岩手能登守信盛
武田信勝は信玄の父信虎の従弟にして領所岩手に住し永禄8年岩手姓を名乗り信盛と改名す。武田家の副将また旗奉行として出陣し戦功あり。永禄5年菩提寺信就院を建立。元亀2年信州長沼城を預り岩手に信景父子差し置き彼地に趣き天正12年6月26日任地にて死す。
天正10年武田滅亡の際、信盛嫡男信景は、一族の犠牲となり子孫を安せんとして南山に討たる。その後江戸にて明治を迎え、末裔岩手市蔵の孫、秀尾夫妻は一族供養の悲願をこめてこの建碑をなす。時に昭和44年6月25日なり。
(石碑記載文章より)



2007年12月01日

天正10年岩手右衛門太夫信景殿ハ武田ノ親族故子孫ヲ安ンゼンガ為南山ニテ相果テラレ候。合掌。
(石碑記載文章より)

大岩院殿信月光公
俗名:武田治部少輔縄美
武田縄美の時大石明神新宮建立崇敬あり後に信盛造営神田を附す。更に菩提所には寺領七貫文を附け外に十貫文の寄附状あり。
武田縄美は武田信昌の三男にて父信昌より永正元年に岩手郷沢十一箇村五千余貫を配知領し来たり、東武田殿と号す。永正5年曽根勝山において戦死す。跡目は嫡男、岩手能登守信盛これを継承す。
甲斐源氏武田之支流岩手家系図
信昌--信縄--信虎--晴信(信玄)--勝頼
   -縄美--信盛--信景--信重
(石碑記載文章より)

信盛院殿宥山雲公大庵主
俗名:武田信勝改岩手能登守信盛
武田信勝は信玄の父信虎の従弟にして領所岩手に住し永禄8年岩手姓を名乗り信盛と改名す。武田家の副将また旗奉行として出陣し戦功あり。永禄5年菩提寺信就院を建立。元亀2年信州長沼城を預り岩手に信景父子差し置き彼地に趣き天正12年6月26日任地にて死す。
天正10年武田滅亡の際、信盛嫡男信景は、一族の犠牲となり子孫を安せんとして南山に討たる。その後江戸にて明治を迎え、末裔岩手市蔵の孫、秀尾夫妻は一族供養の悲願をこめてこの建碑をなす。時に昭和44年6月25日なり。
(石碑記載文章より)

 
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