『長篇長篠軍記』〈東弾正山の激戦、武田軍岡部盛久岩手胤秀戦死す〉より
東弾正山へ押し寄せた徳川勢大須賀五郎左エ門康高、菅沼藤蔵定政、三宅惣左エ門康定、菅沼小大膳定利、戸田三郎右エ門忠次、高力権左エ門康長等元気旺盛で三面より猛烈に攻め立った。
此の手を拒守する武田勢は山縣五隊長を始めとして岡部竹雲斎、小山田兵衛尉、小笠原興八郎、岩手左馬助、城和泉守等の千八百人であったが、豫て期したる事とて怯まず臆せず頑強の防戦に寄せ手も甚大の勢力を払わなければならない。
斯くして一進一退の間両軍の死屍は積で丘を築き血は流れて川を成し惨憺たる修羅の巷と化して光景賛酸鼻に耐えざるものがあった。けれども両軍共にたおるる者は踏み越え手負いも顧みず追いつ追われつ猛烈の白兵戦を続けられた。然るに武田勢は素より続く生兵の無ければ漸次に苦戦に陥り、岡部竹雲斎先ず大須賀の手に倒れ、次いで岩手左馬助は三宅の手に討死したから今は城和泉守、小山田信茂、小笠原長忠及び山縣五隊長とで支援されて居る者の生兵の続く寄手の攻撃には漸く手餘さざるを得ない事となった。
『甲斐国志』によれば、岩手氏は、清和源氏に発し、義光流、武田支流に属し、治部小輔縄美岩手郷を領するにより、岩手を号した。その子能登守信盛は武田信玄に仕え、旗奉行として、武田の御旗を奉持する重要な役目を仰せつかり東の武田殿と言われた。その子信景は武田勝頼に仕え、天正10年武田家滅亡の時、織田信長の命により自殺。法名は久山と記されており、胤秀の名は出てこない。同時代の人物と思われるが、兄弟なのか、別人なのか定かではない。
前述のように岩手氏は笛吹川の中流右岸岩手町を領し、代々岩手を称しており、武田親類衆に属して重要な地位についていた。現在山梨県山梨市東にある曹洞宗の古い寺信盛院は能登守信盛の開基であり、本尊は千手観音が祀られれている。岩手氏の菩提寺として信仰厚く、信盛は永禄5(1562)年信盛院を創建、九貫9百文余を寄進しているとある。
信盛は武田縄美の嫡男で、武田信玄の父信虎とは従弟の間柄でもあり、信盛、信景、信重と武田家に仕え、親類衆として重要な地位を占めていたといえる。
(設楽原戦場考より) |