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愛知県新城市

岡部竹雲斎の墓

2012年05月04日

首洗い池の西北、道一つ離れた小高い丘の中裾に、向かって左手に岡部竹雲斎、右手に岩手左馬之助胤秀之墓が新たに設楽原をまもる会により建立された。岡部竹雲斎の戦死の地については、色々な説がある。
『長篠戦後四百年史』に「鳶巣山…岡部竹雲斎是を守る。ここにおいて討死する。信玄祖師堂と戦没者の位牌に、岡部竹雲斎(鳶)」とある。『設楽原戦史考』には「彼我戦死者の考証に、是認すべき者を挙ぐれば左の如し。岡部竹雲斎(業繁長臣)…(以上武田軍、鳶が巣隊)」と、『信長公記』には「武田軍は前後の軍勢をみだし、これを信長公が追撃させられ、首を多数討取った。その氏名がわかっているものだけでも。…岡部・竹雲…等がいた」と。
また鎌子信治の『長篇長篠軍記』には「武田軍最後の陣立、左翼軍の東弾正山の中に岡部竹雲斎盛久があり。東弾正山の激戦で岡部竹雲斎は大須賀の手にたおれた」とある。
『信長公記』・『長篇長篠軍記』の記述から、岡部竹雲斎は最後配陣には、左翼に属して東弾正山で防戦し徳川の精鋭の猛烈なりる攻撃のために其処で討死したものと思われる。
墓所は、『長篇長篠軍記』に『「藷山の随筆」にみえた岡部竹雲斎之墓も、今所在不明なると遺憾とす。故に長篠顕彰会も建碑に及ばなかったであらふ』とあるように、現存しないため、設楽原をまもる会が『藷山随筆』をもとに、縁の所を選び地権者のご理解を得て建碑した。
(設楽原戦場考より)

 
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