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静岡県掛川市

掛川城

 
2013年12月30日

 掛川城は、文明年間(1469〜1486)頃今川氏の家臣が掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。
永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点となりました。天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。その後掛川城は松平家、太田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として明治維新まで続きました。
(看板資料より)


太鼓櫓

正保城絵図では、荒和布櫓と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永7(1854)年の大地震以降に建てられていた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30(1955)年に三の丸から移築されました。
(看板資料より)


三日月堀

本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mありました。調査では堀の南側から石垣がみつかりました。その下からは柱穴が並んで見つかりました。
(看板資料より)

 


 
2001年10月07日



2001年08月10日

 掛川城は、文明年間(1469〜1486)頃今川氏の家臣が掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。
永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点となりました。天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。その後掛川城は松平家、太田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として明治維新まで続きました。
(看板資料より)


霧吹き井戸

永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
(看板資料より)


掛川城御殿

御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物です。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。文久元年(1861)に再建されたものですが、現存する城郭内の御殿としては、京都二条城など全国でも数ヶ所にしかない貴重なものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などに転用されましたが、昭和47年(1972)から昭和50年の3年間にわたって保存修理され、国の重要文化財に指定されました。
(看板資料より)


掛川城大手門跡

大手門は城の正面にあたります。平成5年(1993年)に行なわれた発掘調査では、掛川城大手門の柱の礎石根固め石(12ヶ所)、番所跡、土塀の石垣を確認しました。これらの配置は正保年間頃(1644〜1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることがわかりました。
平成7年(1995)、大手門と番所は周辺の区画整理により北に復元されました。これらの遺跡の位置を明らかにするため、道路と歩道上に根固め石と番所跡の一部を表示しました。
(看板資料より)

大手門



1984年03月27日

 
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